四季のモザイク

チュニジア西部にある古代ローマ都市遺跡ハイドラ(Haïdra、古代名アマエダラ)で、1939年から1940年にかけての冬に発見されたモザイク画。

方形の四隅にはバラを手にした「春」、麦穂の「夏」、葡萄の「秋」、オリーブの「冬」の四季の擬人像が配され、中央には一年の精霊を表す裸形の若者が置かれている。周囲を彩る草花や、孔雀・雉・鷺・鴨・鵞鳥といった鳥たちの図像は、豊穣と繁栄への願いを表す、ローマ支配下の北アフリカ特有の華やかな様式、いわゆる、ロマーナ・アフリカ様式(Afro-Roman style、Romano-African style)を代表する作品とされる。

当時の富裕層の邸宅(ヴィラ)の床から発見。考古学調査により、この邸宅や周辺の街は西暦238年に起きた大規模な戦乱・暴動の際に破壊され、放棄されたことが明らかになっている。西暦238年は、ローマ帝国の歴史において、1年のうちに6人の皇帝が次々と立った六皇帝の年(Annus Sex Imperatorum、Year of the Six Emperors)と呼ばれる激動の年。

西暦238年のチュニジア(当時のローマ属州アフリカ・プロコンスラリス[Africa Proconsularis])は、まさに、束の間の歓喜と、その直後の絶望、に見舞われた年であった。当時ローマ帝国を統治していたのは、皇帝アレクサンデル・セウェルスの暗殺(235年)で即位した戦場叩き上げの軍人皇帝マクシミヌス・トラクス(Maximinus Thrax、Gaius Julius Verus Maximinus)である。彼は戦費調達のため属州の富裕な地主層に過酷な重税を課し、これに耐えかねた地主たちはついに徴税官を殺害して反乱を起こす。しかし反乱には大義名分となる指導者が必要だった。彼らが担ぎ上げたのは、地元の総督を務めていた80歳の名望家ゴルディアヌス(Gordianus、Gordian)である。老ゴルディアヌスは当初これを固辞したが、46歳の実子を自分と対等な共同皇帝とすることを条件に承諾し、史上稀な父子共同皇帝ゴルディアヌス1世(Gordian I)・2世(Gordian II)が誕生した。

粗暴な皇帝から解放され、教養ある親子が新指導者となったことに、チュニジアの富裕層は歓喜した。まさにこの高揚と楽観のさなか、ある邸宅の床に注文されたのが本作である。中央の若者は「新しく始まる輝かしい一年」を、四方の季節神と豊かな動植物は「これから訪れるはずの平和と繁栄」を象徴していた。

だが、その幸福はわずか3週間ほどで潰える。マクシミヌスに忠実な精鋭正規軍が反乱鎮圧のため隣接属州から侵攻し、軍事経験のないゴルディアヌス2世は急造の市民軍を率いて奮戦するも戦死。カルタゴでこの報に接した父ゴルディアヌス1世は絶望のうちに自ら命を絶った。勝利した皇帝軍は、反乱に加担したチュニジアの都市や富裕層の邸宅を見せしめとして徹底的に破壊・焼却する。完成から間もないこのモザイクも、主を失った邸宅とともに崩落した瓦礫の下に埋もれた。

皮肉にも、この破壊こそが本作を後世に伝える結果となった。瓦礫に埋もれたことで長らく人目に触れず保存され、1939-1940年の発掘によって、西暦238年という激動の一瞬をそのまま封じ込めたタイムカプセルとして姿を現したのである。

(参考)六皇帝の年

西暦238年は、わずか1年のうちに6人が皇帝の座に就いた六皇帝の年(Year of the Six Emperors)と呼ばれる。ローマ帝国史上最大級の政治的混乱の年である。

発端は前皇帝アレクサンデル・セウェルス(Severus Alexander)の暗殺(235年)にさかのぼる。これにより軍の支持で即位したのが、下級兵卒から成り上がった軍人皇帝マクシミヌス・トラクス(Maximinus Thrax)である。彼は対ゲルマン戦争の戦費を賄うため属州に重税を課し、とりわけ属州アフリカ・プロコンスラリスの地主層を苦しめた。

238年初頭、この重税に耐えかねたアフリカの地主たちが徴税官を殺害して蜂起し、地元総督であった老ゴルディアヌス(Gordianus、後のゴルディアヌス1世)を皇帝に擁立する。ゴルディアヌスは実子(ゴルディアヌス2世、Gordianus II)を対等な共同皇帝とすることを条件に承諾し、両者は共同皇帝ゴルディアヌス1世(Gordianus I)・2世として即位した。しかし在位はわずか3週間ほどで終わる。隣接するヌミディア属州の総督カペリアヌス(Capelianus)がマクシミヌスへの忠誠を守り、正規軍を率いてカルタゴ近郊で反乱勢力を撃破。ゴルディアヌス2世は戦死し、父ゴルディアヌス1世も絶望のうちに自死した。

ゴルディアヌス父子の死を知った元老院は、なおもマクシミヌスとの対決姿勢を崩さず、元老院議員のプピエヌス(Pupienus)とバルビヌス(Balbinus)を新たな共同皇帝に選出した。両者は軍事指揮と首都防衛の役割を分担し、マクシミヌス討伐にあたった。マクシミヌス自身は、イタリア北部アクイレイア(Aquileia)を包囲中に食糧不足と長期戦への不満から自軍の兵士に殺害され、あえなく敗死する。

だが最大の脅威が去った後も、プピエヌスとバルビヌス両帝の関係は不安定であった。互いへの猜疑心から統治は機能不全に陥り、最終的に両者は近衛兵によって殺害される。こうして最後に残ったのが、ゴルディアヌス1世の孫にあたる13歳の少年ゴルディアヌス3世(Gordianus III)であった。彼は父子反乱の際にすでに元老院・プピエヌス・バルビヌスの共同統治下で共同皇帝格として擁立されており、他の全員の死後、単独皇帝として即位する。以後13年間にわたり在位した。

このように238年の政変は、①マクシミヌス・トラクス、②ゴルディアヌス1世、③ゴルディアヌス2世、④プピエヌス、⑤バルビヌス、⑥ゴルディアヌス3世という6人の即位・退位が短期間に連続した、ローマ帝政史上でも異例の年であった。この混乱は、軍が皇帝を左右する軍人皇帝時代(Crisis Tertii Saeculi、Crisis of the Third Century )の始まりを象徴する事件としても位置づけられている。


'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"

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