上杉本洛中洛外図屏風

狩野派の代表的な画人である狩野永徳[天文12.01.13〔1543.02.16〕 - 天正18.09.14〔1590.10.12〕]の作品.

上杉本洛中洛外図屏風は、 安土桃山時代を代表する都市風俗画の到達点の一つであり、狩野永徳の壮麗かつ統御された構図感覚が最も端的に示された作品である。現在は米沢市上杉博物館に所蔵され、国宝に指定されている。本作は、 天正2(1574)年頃、 織田信長が越後の戦国大名・上杉謙信に贈ったと伝えられており、その来歴とともに、 政治的・儀礼的機能を帯びた絵画としての性格を強く有している点においても重要である。

将軍御所(室町第)の近くに位置する斯波邸の前で行われている闘鶏の様子を描く。周囲の大人が見守る中で闘鶏を眺めている一人の少年がいるが、この少年こそは後に非業の死を遂げる室町幕府の第13代将軍・足利義輝の幼少期の姿だと考えられている。永禄元(1558年)年、三好長慶との長年の抗争に一時的な決着をつけ、将軍としての権威を取り戻すために5年ぶりに京都へ復帰した足利義輝は、斯波邸の跡地を買い取り、周囲に強固な堀や石垣を巡らせた二条御所(武衛陣の御所)の建設を始めている。足利義輝は天文19(1550)年に三好長慶との対立から京都を逐われた。その後、近江に滞在しながら将軍権力の回復を図り、永禄元年に六角義賢の仲介によって三好氏と和睦し、京都への帰還を実現。帰洛後の足利義輝にとって最大の課題は、将軍としての政治的拠点をどこに置くかであった。かつての将軍御所である花の御所(室町殿)は応仁・文明の乱以後に荒廃しており、往年の規模や機能を失っていた。従って、新たな御所を設ける必要があった。

そこで、選ばれたのが、室町幕府の三管領筆頭であった斯波氏の旧邸、すなわち武衛陣であった。武衛陣とは、管領を務めた斯波氏の本邸であり、室町初期には将軍邸に次ぐ有力な政治拠点であった。「武衛」とは兵衛督を世襲した斯波氏の家号であり、その屋敷であったため武衛陣と呼ばれた。かつての武衛陣は広大な敷地を持ち、応仁の乱期には堀や櫓を備えた半ば城郭のような施設であったという。

なお、16世紀中頃の斯波氏は、もはや管領家としての実力をほとんど失っていた。本来の斯波氏は越前・尾張・遠江の守護を兼ねる大大名であった。しかし15世紀後半から守護代勢力の台頭によって領国支配を失い始める。越前では朝倉氏に実権を奪われ、遠江では今川氏が台頭し、最後に残った尾張でも守護代織田氏の傀儡となった。16世紀になると斯波氏当主は名目上の守護にすぎず、自前の軍事力も財政基盤も失っていた。さらに天文23(1554)年、当主である斯波義統が守護代の織田信友によって殺害されるという事態に至る。嫡子の斯波義銀織田信長に擁立されて一時復権するが、やがて尾張から追われ、永禄年間には既に京都の武衛陣を維持する能力も失っていた。

つまり、足利義輝が京都へ戻った時点では、武衛陣は「斯波氏の屋敷」ではあっても、実際には主を失った名門旧家の遺跡に近い存在だったのである。

また立地も重要であった。武衛陣跡は京都御所の西側に位置し、上京と下京の中間に近い場所であったため、洛中支配の拠点として適していたとの指摘がある。単なる住宅ではなく、京都全体を統治する将軍政庁として機能しやすい位置であった。

左下に見える赤い鳥居は、武家屋敷の敷地内、またはその街区を護るために祀られていたお社。周囲に生い茂る松の木と美しく調和して描かれている。

参照:


'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"

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