

版画家・芸術家として知られる棟方志功(1903〔明治36〕-09-05 - 1975〔昭和50〕-09-13)が制作した代表的な板画作品の一つ。
『弁財天妃の柵』(べんざいてんひのさく)は、版画家・芸術家として知られる棟方志功が制作した代表的な板画作品の一つであり、戦後の棟方芸術を象徴する重要作として高く評価されている。「柵」とは棟方が独自に用いた作品群の呼称であり、複数の板画が組み合わさって構成される連作形式、あるいは屏風状に展開される画面構成を指す。棟方は通常の「版画」という呼称を避け、木を彫ること・板と対話することを本質とする自らの行為を「板画」と称したほか、「倭画」「油絵」など各ジャンルを独自の意味体系のもとで再定義したことで知られる。『弁財天妃の柵』もそのような独自の芸術世界の中から生まれた作品である。
作品の主題である弁財天は、古代インドの女神サラスヴァティー(Sarasvatī)に起源を持つ。ヒンドゥー教・仏教を通じて東アジアへ伝播し、日本では「弁才天」「弁財天」の字があてられ、七福神の紅一点として広く信仰されてきた。音楽・芸能・弁舌・知恵・財福を司る女神として崇敬される一方、中世以降は豊穣・美・女性的生命力の象徴としても理解されてきた。江島神社・竹生島・宮島などが三大弁財天の霊場として知られ、水や蛇との結びつきも深い。棟方は仏教や神道の教義を学術的・教義的に解釈するよりも、民衆信仰や宗教的感動を直観的に受容する傾向が強く、弁財天を単なる神像としてではなく、宇宙的な生命力と慈愛を体現する存在として描き出している。
画面中央には圧倒的な存在感をもつ女性像が据えられている。弁財天は正面性を強調した姿勢で表現され、その身体は写実的な人体描写にとどまらず、生命のエネルギーそのものを象徴するかのように大胆に変形・誇張されている。豊かな肉体の量感、大きく見開かれた眼、渦を巻くように流れる髪は、棟方作品に一貫して見られる造形的特徴である。とりわけ眼の表現は重要である。棟方の人物像に繰り返し現れる神秘的な眼差しは、観る者を正面から見返すような強い精神性を帯びており、図像が単なる鑑賞対象ではなく霊的存在として機能していることを示している。これは棟方が強度の近視であったこととも無関係ではないと指摘されており、眼前の対象に肉薄するように向き合う身体的習慣が、あの凝縮した眼の表現に結実したとも考えられる。
棟方の女性表現は一般的な美人画の系譜とは根本的に異なる。均整のとれた理想美を追求するのではなく、生命の根源的な力や母性的包容力を強調するために大胆な誇張と変形が施される。『弁財天妃の柵』においても、身体の量感や髪の動きは自然主義的な描写を超え、宇宙的な生命力の奔流を視覚化したものとなっている。ここには女性を単なる鑑賞対象として見る視点はなく、生命そのものへの賛歌が刻み込まれている。
技法面では棟方独自の板画表現が遺憾なく発揮されている。浮世絵版画のような絵師・彫師・摺師による分業体制とは異なり、棟方は一人で版木の選定から彫り・摺りまでを一貫して手がけた。一般的な浮世絵版画が追求するような精緻な線描を目指すのではなく、彫刻刀による力強い刻線をそのまま画面の生命として活用している。木を彫る行為そのものが創作であり、刃が木材を切り裂く瞬間に生じる偶然性や勢いは排除されるどころか積極的に取り込まれた。画面全体には激しいリズム感が宿っている。黒と白の強烈な対比によって構成された線と面は、静止した図像でありながら躍動感に満ちている。棟方は版木の木目や彫刻刀の軌跡を画面から消し去らず、それらを生命力の痕跡として定着させた。このため作品は単なる図像を超え、作者の身体運動そのものが刻印された精神的記録でもある。
棟方志功の芸術を理解する上で欠かせないのは、彼が自らを創造者ではなく媒介者として認識していた点である。「わたしは描かされている」「仏が私の手を動かしている」という趣旨の発言を繰り返し残しており、仏や神の力が自身を通じて表現されるのであり、芸術家個人の技巧や知性は二次的なものに過ぎないという考え方を終生持ち続けた。『弁財天妃の柵』に見られる圧倒的な生命感と宗教的高揚感は、このような創作観から不可分に生まれている。
本作はまた、棟方が一貫して追求した美と信仰の一致を体現する作品でもある。西洋近代美術に見られる芸術の自律性や個人表現の強調とは対照的に、棟方にとって芸術とは神仏への感謝と生命への畏敬を表現する行為であった。弁財天という宗教的存在は、その思想を最も象徴的に体現できる主題の一つであった。
作品を鑑賞するにあたって重要なのは、図像学的な意味の解読にとどまらないことである。むしろ画面から発散するエネルギー、刻線の勢い、白黒のリズム、そして女性像が放つ圧倒的な存在感に身を委ねることが本質に近い。棟方自身が求めたのも、知的理解に先行する感動であった。『弁財天妃の柵』は弁財天という女神を描いた作品であると同時に、自然・生命・信仰・芸術が渾然一体となった棟方志功独自の宇宙観の表現である。その力強さと精神的深さによって、本作は日本近代版画史のみならず、二十世紀日本美術全体を代表する宗教的・精神的作品の一つとして高く位置づけられている。
参照:日本美術史
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"
