

世界遺産にも登録されているペレントリの聖十字架教会(Timios Stavros Church in Pelendri)の壁画。
キプロス中部、トロードス山脈の山中に、ビザンティン絵画史上もっとも重要な記念碑的建造物群が今日まで生き残っている。これらはいずれも11世紀から19世紀にかけてのビザンティンおよびポスト・ビザンティン壁画の卓越した実例を保持する彩色教会であり、そのうちの10教会がUNESCO世界文化遺産として登録されている。聖十字架教会(Timios Stavros)はキプロス南部リマソール県ペレントリ村の南端に位置し、1985年に世界遺産として登録された。現在の教会はパライオロゴス期(1261〜1453年)の壁画によって飾られており、もとは12世紀中頃に建てられた単廊式ドーム付き教会であったが、何らかの事情で破壊された。
現存する最古の壁画は1178年のものであり、後陣(アプシス)に所在する。その献堂銘文によれば、後陣のコンクに描かれたのは巨大なキリスト・パントクラトール(Christ Pantocrator, Παντοκρατωρ)であり、右にマリア、左に洗礼者ヨハネが、人類の罪の許しを乞うために、キリストに向けて両手を掲げて祈るデエシス(Deësis / Deisis)の姿勢で従う構図が採られている。その後、14世紀初頭に新たな教会が旧後陣を組み込んで再建され、少なくとも同一工房に属する三名の画家によって装飾が施された。
第一の画家はパライオロゴス派の様式に従い、ドームのキリスト・パントクラトールと四隅(ペンデンティヴ)の福音書記者像を描くとともに、南北両側壁の中央盲アーチの東半部に聖母マリアの受胎告知を描いた。すなわちこの受胎告知壁画は、教会内装飾全体を統括した最上位の画家の手になる作品であり、決して副次的な場所に配された補完的図像ではなく、キリスト論的・マリア論的プログラムの核心に位置づけられるものである。
ペレントリの聖十字架教会には14世紀第3四半期に年代付けられるパライオロゴス様式の明確な例が認められる。特にドームのスパンドレルに描かれた福音書記者の人物像において顕著であり、帝国の主要芸術中枢と直接の結びつきを示す表現上の特質が見受けられ、同じ教会内でありながら伝統的キプロス要素と西欧化された意匠とを混在させた他の壁画群とは明らかに異なる性格を帯びている。アネマリー・ワイル・カー(Annemarie Weyl Carr)をはじめとする研究者たちが指摘するように、ペレントリの聖十字架教会のドームのペンデンティヴに描かれた福音書記者の人物像は、キプロスにおけるパライオロゴス様式の重要事例として繰り返し論じられており、ラテン系の奉納者に帰属される可能性も指摘されている。
受胎告知がドームの真下に位置する盲アーチ(blind arch)の東半部、すなわち至聖所に向かう軸線上の壁面に置かれているという事実は、単なる建築上の選択ではなく、神学的意図の産物と解する必要がある。ビザンティン教会建築において、後陣(アプシス)は神の現前と受肉の場を象徴し、ドームは天の領域を体現する。その中間的移行点に当たる壁面に受胎告知を配することで、天使ガブリエルの到来から神の言葉の受肉へという出来事が、まさしくその神学的意味が空間として具現化された場所に示されることになる。ビザンティンの礼拝空間では凱旋門(トリウムファル・アーチ)周辺が受胎告知の定位置とされることが多く、この配置もその伝統に連なるものである。
ビザンティン美術における受胎告知の構図は、天使ガブリエルを左側、聖母マリアを右側に配する二極的分割を基本とし、ガブリエルは杖を持ちながら告知と崇敬の姿勢を示し、マリアは注意深く言葉を受け取る表情と身振りをもって応答する。しかし、ペレントリの受胎告知が単純な図像の踏襲にとどまらないのは、それが14世紀のパライオロゴス・ルネサンスという特定の美術史的文脈のなかで刷新されたからである。
中央身廊の壁画の多くは聖母の地上における生涯に捧げられており、マリアの誕生、神殿奉献、婚礼、受胎告知、エリザベトとの出会いなどが連作として展開される。西ヴォールトと側廊のルネットには聖母マリアの生涯にまつわる一連の壁画が14の場面として特に詳細に描かれており、碑文の書体から分析すると、この画家はアシヌー(フォルビオティッサ)のパナギア教会の中央部のフレスコを制作した者と同一であることが示唆される。
西扉の上方に残る碑文は、1330年代に内陣が聖母に関する場面群によって改めて描き直されたことを記念している。この1330年代という年代は重要である。当時のキプロスはフランク系ルジニャン朝の支配下にあり、東方ビザンティンの美術的伝統と西方ゴシックおよびアルメニアの要素が複雑に絡み合う文化的十字路であった。
12世紀のキプロスにおける絵画とキリスト教西方美術との間には非常に密接な関係が存在していた。そして北側廊は当該地域のラテン系封建領主であるヨアネス・ルジニャン(1353〜1374/75年)の一族の私的礼拝堂として機能しており、この側廊の壁画装飾は西方的・ビザンティン的特質の融合を示し、キプロスのラテン支配者たちが必ずしもゴシック芸術への選好のみを持っていたわけではないことを示す。
ラテン支配者たちの庇護のもとで東方ビザンティン様式の絵画が制作されたという事実は、ペレントリの受胎告知壁画が東西の礼拝文化の接点において生まれたことを意味する。福音書記者像やキリスト論的場面における純粋なパライオロゴス様式が、ラテン的奉納者層の需要とも矛盾せず共存しえたという事実は、地中海東部の14世紀における美術的受容のあり方の複雑さを如実に示している。
参照:西洋美術史
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"
