ムクルティチ・クルミャンの肖像

ヴァルドゲス・スレニャンツ[Vardghes Sourenyants,1860/1921]による,19世紀後半から20世紀初頭にかけてのアルメニアの宗教的・政治的指導者であるムクルティチ・クルミャン[Khrimian Hayrik , Խրիմյան Հայրիկ]を描いた作品.

現在,イェレヴァンの国立アルメニア美術館に所蔵されている大作である.画面には, 全アルメニア教会のカトリコスを務めたムクルティチ・クルミャンが堂々と椅子に腰掛ける姿がほぼ等身大で描かれている.深い藍色の典礼服に包まれた身体からは宗教的威厳が漂い, 豊かな白い顎鬚と刻まれた皺は, ただの外貌の描写を超えて, 民族の精神的支柱としての重みを象徴している.わずかに横に向けられた視線と沈思するような表情は, 彼の内面に宿る思索の深さを暗示し, 背景に配された室内のしつらえや柔らかな光は, 人物を浮かび上がらせると同時に神聖な雰囲気を付与している.

クルミャン[1820–1907]は, アルメニア近代史において宗教的・民族的指導者として極めて重要な人物であった.人々から「ハイリク[父]」の愛称で呼ばれた彼は, 教育や出版活動を通じて民衆啓蒙に力を尽くし, アルメニア人の自己意識を育む役割を担った.ヴァンに学校や印刷所を設立し, アルメニア語による新聞を刊行して民族意識の覚醒を促したことは特に知られている.1869年から1873年までは, オスマン帝国内のアルメニア人社会で最も影響力のあるコンスタンティノープル総主教の職に就いたが, オスマン政府から脅威と見なされ, 政府の圧力により辞職を余儀なくされた.

1877-1878年の露土戦争終結後, クルミャンは1878年のベルリン会議にアルメニア代表団の団長として参加し, 列強にアルメニア人の権利と安全を訴えた.しかし, その訴えは退けられ, 帰国後に行った有名な説教で「バルカン諸国は鉄の杓子を持って自分たちの分け前を得たが, 我々は紙の杓子を持って行った」と述べた.この「紙の杓子」の比喩は, アルメニア人の政治的無力と国際政治における立場の脆弱さを象徴する言葉として記憶されることになった.1893年には全アルメニア教会のカトリコスに選出され, 晩年までエチミアジンにあって民族共同体の精神的指導者としての責務を果たし, 1907年10月29日にヴァガルシャパト[エチミアジン]で逝去した.

この肖像が描かれた1906年は, クルミャンが晩年に差しかかり, その生涯の業績が民族の記憶に刻まれつつあった時期である.翌年の1907年に彼が逝去することを考えると, この作品は彼の生涯最晩年の姿を捉えた貴重な記録でもある.スレニャンツは「アルメニア歴史絵画の創始者」とも呼ばれ, アルメニアの昔話や歴史的事件を題材とした作品を数多く手がけた画家である.写実的な観察に基づきつつも民族的・象徴的な意味を込める作風を特徴とし, 彫刻家, 挿絵画家, 翻訳家, 美術評論家, 演劇芸術家としても活動した多才な芸術家であった.

彼の筆は布の質感や髭の一本一本を精緻に描き出すと同時に, 全体の色調と構成によって人物を時代精神の象徴として顕現させている.この絵画においてクルミャンは単なる宗教指導者としてではなく, 近代アルメニアの「民族の父」として造形されているのである.作品を前にすると, 観る者は一人の聖職者の晩年の肖像を超えて, 民族の記憶と理想を体現した存在と対面する感覚を得るであろう.


'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"

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