
紀元前14世紀から前13世紀にかけての西アジアおよび東地中海世界においては, 相互に拮抗する複数の大国が並立し, 軍事的緊張と外交的均衡の上に成り立つ国際秩序が形成されていた.この時代における主要四カ国としては, ヒッタイト帝国, エジプト新王国, ミタンニ王国, そしてカッシート朝バビロニアが挙げられる.これら四国は地理的に相互に接続しつつ, 勢力均衡を維持しながら外交関係を展開していた.この時代の外交実態は, 前1350年頃から前1330年頃にかけてエジプトのアマルナ[アケタトン]で発見されたアマルナ文書[楔形文字アッカド語による外交書簡群]に克明に記録されており, 当時の国際政治の具体的様相を現代に伝える第一級史料となっている.また各国間では「大王同士の兄弟関係」という建前のもと, 贈与・婚姻・書簡を通じた多角的な外交関係が展開されており, これは近代以前の国際関係としては極めて洗練されたシステムであったと評価できる.
ヒッタイト帝国はアナトリア高原, すなわち現在のトルコ中央部に相当する地域を基盤とし, 首都ハットゥシャ[現在のボアズキョイ付近]を中心に強固な国家体制を築いた.王国の起源は前1650年頃に遡り, ピトハナやアニッタといった初期の王による統一を経て, 前1400年頃から帝国期[新ヒッタイト王国]へと移行する.
彼らはしばしば「鉄器の先駆者」として言及されるが, この理解には留保が必要である.確かにヒッタイトは前1200年頃以前から製鉄技術を保有・独占していたとされるが, この時代においてはなお青銅器が軍事・農業の主流であり, 鉄はむしろ儀礼的・貴重品的な位置づけであった.製鉄技術が広く普及するのは前1200年以降の青銅器時代崩壊後のことであり, ヒッタイト崩壊によって技術が拡散したと考えられている.金属加工技術全般における高度な水準がヒッタイトの技術的優位の本質であったことは確かである.
軍事的には二頭立て戦車を中核とする機動戦力が特徴的であり, シリア方面への進出を通じて南方のエジプトと直接対峙するに至った.この対立の頂点が, 前1274年頃にシリアのオロンテス川上流において戦われたカデシュの戦いである.ラムセス2世率いるエジプト軍とムワタリ2世率いるヒッタイト軍による衝突は, 史上最大規模の戦車戦の一つとして知られている.戦闘自体は戦略的決着を見ず, 前1259年頃に史上初の平和条約として名高いカデシュ条約が締結された.この条約の写しはイスタンブール考古学博物館に所蔵されており, 国連本部にもそのレプリカが掲げられている.
ヒッタイト帝国は前1180年頃, 「海の民」の侵攻および内部的混乱によって突如崩壊し, 首都ハットゥシャも破壊された.
エジプト新王国は前1550年頃, ヒクソス人[西アジア系勢力]をアフメス1世が駆逐することで成立した第18王朝に始まる.第18・第19・第20王朝の約500年にわたって続いたこの時代はエジプト文明の最盛期の一つであり, ナイル流域の豊かな農業生産力と神殿経済を基盤として対外遠征を積極的に展開した.
第18王朝においては, 前1479年頃から前1425年頃に在位したトトメス3世が特に顕著な軍事的拡張を行い, シリア・パレスチナ方面に17回以上の遠征を実施して「エジプトのナポレオン」とも評される.また同王朝には, 前1353年頃から前1336年頃に在位し一神教的太陽神アテン崇拝を強制した異端のファラオであるアクエンアテン[アメンホテプ4世]の治世があり, その宮廷においてアマルナ文書が作成された.アクエンアテンの宗教改革とアマルナへの遷都は従来の神官勢力と対立し, その死後に急速に撤回された.
第19王朝のラムセス2世[在位:前1279年頃–前1213年頃]の治世はエジプト新王国の象徴的絶頂期として名高い.前述のカデシュの戦いにおけるヒッタイトとの対峙のほか, アブ・シンベル神殿をはじめとする大規模建築事業を推進し, その治世は約67年に及んだ.カデシュ条約締結後はヒッタイトと安定した平和関係を維持し, ヒッタイト王女を后に迎えるなど融和策も採った.
エジプトの外交は単なる軍事力の行使にとどまらず, アマルナ文書に示されるように, 金・象牙・黒檀といった贈答品の交換, 婚姻外交, そして丁寧な書簡による儀礼的関係構築に長けていた.エジプト産の黄金は「砂のように豊富」と讃えられ, 他国からの贈答品要求の対象となっていた.
ミタンニ王国は前1500年頃に北メソポタミア[現在のシリア北部・イラク北部・トルコ南東部にまたがる地域, いわゆる「ハブル三角地帯」]を中心に成立した国家であり, 首都はワシュカンニ[正確な位置は未確定]に置かれた.地理的にはヒッタイトとエジプトの中間に位置する緩衝国家として機能した時期もあるが, その最盛期においては両国と対等な大国として渡り合っていた点に注意が必要である.
その支配層[王族・貴族層]にはインド=イラン系[ミタンニ=アーリア系]の要素が認められ, ミトラ・ヴァルナ・インドラ・ナサティヤというヴェーダの神々への誓約がヒッタイトとの条約文書に登場することから確認できる.一方で民衆・行政層は主としてフルリ人で構成されており, フルリ語が公用語として使用されていた.この重層的な民族構成はミタンニの独自性を示している.
軍事的にはマリヤンヌと呼ばれる戦車戦士貴族階層を擁し, 戦車戦術および馬の育成・調教技術において当時の世界最高水準を誇った.馬の調教法を記したキックリの文書[前1350年頃]はこの技術的優位の証左として今日まで残る貴重な史料である.前15世紀には一時エジプトとも競合したが, やがてトトメス3世に敗れた後は婚姻外交により協調関係に転じ, アマルナ文書にはミタンニ王とエジプト王の緊密な「兄弟関係」が記録されている.
しかしながら,前14世紀中頃[前1350年頃以降], 西からヒッタイトのシュッピルリウマ1世による積極的侵攻を受け, 東からは前14世紀後半に自立したアッシリアの台頭[アッシュル=ウバッリト1世]に挟撃される形で急速に衰退した.前1300年頃にはアッシリアとヒッタイトによって事実上分割され, 独立国家として姿を消した.
カッシート朝バビロニア[バビロン第3王朝とも呼ばれる]は, 前1595年頃にヒッタイトのムルシリ1世によって古バビロニア[ハンムラビ朝]が滅ぼされた後の混乱期を経て, 前1570年頃以降に南メソポタミアを掌握した外来王朝である.その支配は前1155年頃のエラム人による征服まで約400年以上にわたって続き, 古代メソポタミア史上最長の単一王朝の一つとして注目される.
カッシートの出自は現在のザグロス山脈方面と考えられているが, その民族的・言語的系統は依然として不明な点が多い.彼らは外来勢力でありながら, バビロンの文化・宗教・法制度を積極的に継承し, マルドゥク神信仰を奉じてバビロンの正統的支配者としての地位を確立した.クドゥルルと呼ばれる境界石碑は土地付与を記念する独自の記念碑であり, この時代の政治・経済制度を伝える重要な史料である.
ハンムラビ時代の古バビロニアが積極的な軍事拡張を特徴としたのに対し, カッシート朝は概して安定的統治と外交関係の維持に重きを置いた.アマルナ文書にはカッシート王ブルナブリアシュ2世[在位:前1359年頃–前1333年頃]とエジプトのファラオとの間で交わされた書簡が多数含まれており, 金の贈答をめぐる交渉や婚姻申し込みなど, 当時の国際外交の具体的様相が生き生きと記録されている.なかでもブルナブリアシュ2世がエジプトに対してカナン商人の殺害について抗議した書簡は, 当時の治安問題と外交の連動を示す興味深い事例といえる.
このように, 紀元前14世紀から前13世紀にかけてのオリエント世界は単なる軍事的対立の場ではなく, 外交・婚姻・贈与・文化交流を伴う高度な国際システムによって特徴づけられる.とりわけアマルナ文書が示すように, アッカド語という共通の外交言語と楔形文字という共通の記録媒体を通じた外交実践は, 一種の「国際社会」の形成を示唆するものとして現代の研究者にも高く評価されている.
しかしこの均衡は本質的に脆弱なものであった.各国はいずれも内政上の不安定要因[エジプトの宗教的動揺, ヒッタイトの継承問題, ミタンニの民族的複雑性, カッシートの外来性]を抱えており, 外部圧力に対する耐性は限られていた.前1200年頃から始まる「海の民」の大規模移動, 気候変動による農業生産の不安定化, 交易ネットワークの断絶などが複合的に作用し, ヒッタイト帝国の崩壊[前1180年頃], カッシート朝の滅亡[前1155年頃], ミタンニの消滅[前13世紀], そしてエジプト新王国の急速な弱体化[前1070年頃の終焉]として結実したいわゆる青銅器時代の崩壊によって, この国際秩序は急速かつ完全に解体へと向かったのである.この崩壊の後, オリエント世界は再編成の時代を経て, アッシリアや新バビロニアなど新たな大国の時代へと移行していく.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.