アッシリア帝国

起源と初期の歴史

アッシリアの中心地は北メソポタミア, ティグリス川上流西岸に位置する都市アッシュル[現在のイラク北部, モスル南方]であり, その歴史は前3千年紀にまで遡る.アッシュルはもともと交易都市として発展し, 前20世紀から前19世紀にかけてはアナトリア各地にカールム[商業植民地]を展開する交易ネットワークの拠点として機能していた.カッパドキア[現トルコ中部]のカネシュ遺跡から出土した大量の楔形文字粘土板は, この時代のアッシリア商人の活動を生き生きと伝えている.

しかし, 前18世紀にバビロニアのハンムラビがメソポタミアを統一すると, アッシュルはその支配下に入り, 独立した政治勢力としての地位を一時喪失した.さらに前16世紀から前15世紀にかけてはミタンニ王国の支配を受け, 長期にわたって従属的な地位に置かれた.

中アッシリア時代の自立と台頭[前14世紀–前11世紀]

アッシリアが再び歴史の表舞台に登場するのは, 前14世紀後半のことである.アッシュル=ウバッリト1世[在位:前1363年頃–前1328年頃]は, 西からヒッタイトのシュッピルリウマ1世の侵攻によって弱体化しつつあったミタンニの隙を突き, アッシリアの独立を宣言した.アマルナ文書にはアッシュル=ウバッリト1世がエジプトのアメンホテプ4世[アクエンアテン]に宛てた書簡が残されており, 彼が自らを「大王」と称してエジプトと対等な外交関係を要求したことが確認できる.これは従来のオリエント4国体制に第5の大国が参入しようとした動きとして注目される.

その後アッシリアは着実に勢力を拡大し, アダド=ニラリ1世[在位:前1295年頃–前1264年頃]の治世にはミタンニの残存勢力をほぼ制圧し, 北メソポタミアの覇権を確立した.続くシャルマネセル1世[在位:前1263年頃–前1234年頃]はさらなる征服活動を展開し, トゥクルティ=ニヌルタ1世[在位:前1233年頃–前1197年頃]の治世においては南方のカッシート朝バビロニアを征服・占領し, バビロンの守護神マルドゥク神像を略奪するという前代未聞の行為に及んだ.この時期のアッシリアはすでに北メソポタミアの支配的大国として確立されていたと言える.

しかし, 前1200年頃の青銅器時代崩壊の波はアッシリアにも及び, 「海の民」の移動や周辺遊牧民族[特にアラム人]の圧迫によって一時的な衰退を余儀なくされた.前11世紀から前10世紀にかけてはアラム人の侵入によって領土の大半を失い, 再び都市アッシュル周辺に縮小した時代が続く.

新アッシリア帝国の形成と最盛期[前10世紀–前7世紀]

前10世紀後半, アッシリアは再び自立と拡張の軌道に乗り始める.アッシュル=ダン2世[在位:前934年頃–前912年頃]の治世に始まる復興を経て, アダド=ニラリ2世[在位:前911年頃–前891年頃]の時代に積極的な領土拡大が再開された.これ以降の時代は新アッシリア帝国と呼ばれ, 古代オリエント史上最も強大な軍事帝国の一つが形成されていく.

アッシュルナツィルパル2世[在位:前883年頃–前859年頃]は残虐な征服活動で知られる一方, 首都をカルフ[ニムルド]に移転し, 壮大な宮殿建築を推進した.その後継者シャルマネセル3世[在位:前858年頃–前824年頃]は西方への遠征を繰り返し, 前853年のカルカルの戦いではアラム人・フェニキア人・イスラエルなど12カ国の連合軍と対峙した[この戦いは旧約聖書にも間接的に関連する記録がある].

前8世紀後半, ティグラト=ピレセル3世[在位:前744年頃–前727年頃]のもとでアッシリアは一段の飛躍を遂げた.彼は軍制改革[常備軍の整備と地方徴兵制の廃止], 属州制度の整備, および被征服民の強制移住政策を体系化し, 単なる略奪国家から真の意味での帝国的行政国家へとアッシリアを転換させた.この改革はアッシリアの支配を持続的・効率的なものとし, 後の帝国期の基盤となった.彼の治世にはバビロニアも直接支配下に置かれ, ティグラト=ピレセル3世はバビロンの王位をも兼ねた.

その後のサルゴン2世[在位:前721年頃–前705年頃]は前722年に北イスラエル王国を滅ぼし, 住民をメソポタミアへ強制移住させた[これが「イスラエル10支族の消滅」として旧約聖書に記録される事件である].また新都ドゥル=シャッルキン[コルサバード]を建設したことでも知られる.

アッシリア帝国の絶頂期はセンナケリブ[在位:前704年頃–前681年頃]・エサルハドン[在位:前680年頃–前669年頃]・アッシュルバニパル[在位:前668年頃–前627年頃]の三代に当たる.センナケリブは前701年に南ユダ王国への遠征を行い[ヒゼキヤ王との対峙は旧約聖書「列王記」に詳述], 前689年には宗教的禁忌を破ってバビロンを徹底的に破壊した.エサルハドンは前671年にエジプトへ侵攻してメンフィスを占領し, アッシリアの版図をエジプトにまで広げることに成功した.これによってアッシリアは北はアナトリア・コーカサス方面から南はエジプトに至る, 古代オリエント史上空前の規模の領域支配を実現した.

アッシュルバニパルはその治世に征服活動を継続する一方, 首都ニネヴェに大図書館を建設したことで学術史上も重要な位置を占める.楔形文字粘土板を組織的に収集・書写してニネヴェに集積したこの図書館には, ギルガメシュ叙事詩や創造神話エヌマ・エリシュを含む数万枚の粘土板が蓄積され, その多くが前19世紀のヨーロッパ人考古学者による発掘を経て現在大英博物館に所蔵されており, 古代メソポタミア文明研究の根本史料となっている.

アッシリア帝国の崩壊[前7世紀末]

しかしアッシュルバニパルの死後, 帝国は急速に内部崩壊の様相を呈した.広大な版図の維持に伴う軍事的・財政的負担, 属州総督や王族間の権力闘争, そして恒常的な征服・強制移住政策がもたらした被征服民の根深い反発がその主要因として挙げられる.

前626年, 南メソポタミアにおいてナボポラッサルが自立して新バビロニア[カルデア]王国を建国した.これにメディア王国[イラン高原の強国]が同盟して共同作戦を展開し, 前612年にはアッシリアの首都ニネヴェが陥落・完全に破壊された.この出来事は旧約聖書のナホム書においても神の審判として劇的に描かれている.アッシリアの残存勢力はハッランに逃れて抵抗を続けたが, 前609年にここも陥落し, かつて古代オリエント全域を支配した大帝国は名実ともに滅亡した.

アッシリアの歴史的意義と後世への影響

アッシリアの歴史的意義は軍事的征服の規模のみに尽きるものではない.第一に, ティグラト=ピレセル3世以来整備された属州制・総督制・道路網・駅伝制はその後のアケメネス朝ペルシアの帝国統治モデルに直接継承された.第二に, アッカド語とアラム語を行政言語として広域に普及させたことは, 後のアラム語の国際共通語化[アケメネス朝期]に道を開いた.第三に, ニネヴェの図書館に象徴されるメソポタミア文明の知識の集積・保存は, 後世の文化的継承において不可欠な役割を果たした.

さらに強制移住政策を通じた民族的混交は, 後のシリア・パレスチナ地域の人口構成と宗教的展開[サマリア人の形成, ユダヤ人のバビロン捕囚への前段階など]にも深刻な影響を与えており, アッシリアの存在はオリエント史のみならず, ユダヤ・キリスト教・イスラームという世界宗教の歴史的背景を理解する上でも欠かすことのできない要素となっている.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.





















index アフガニスタン ベイリク君侯諸国 インド共和国 バチカン市国 ギリシャ共和国