アフガニスタン

総説

アフガニスタン・イスラム首長国[アフガニスタン・イスラム共和国]は, 中央アジアと南アジアの交差点に位置する内陸国である.面積は約652,230平方キロメートルで, 日本の約1.7倍に相当する.首都はカブール[Kabul]であり, 最大都市でもある.

アフガニスタンは「文明の十字路」とも呼ばれ, 古来よりユーラシア大陸を結ぶ交易・征服ルートの要衝であった.その地政学的重要性ゆえ, 古代から現代に至るまで, 幾多の帝国や列強がこの地をめぐって争い, その歴史は侵略と抵抗の繰り返しであったといえる.

民族構成はパシュトゥーン人[全人口の約40–50%]を最大勢力とし, タジク人, ハザラ人, ウズベク人など多様な民族が居住する多民族国家である.公用語はダリー語[ペルシャ語の方言]とパシュトー語の2言語であり, 国民のほぼ全員がイスラム教を信仰している.2021年8月, タリバンが再び政権を掌握したことで国際社会との関係は断絶し, 深刻な人道的危機が続いている.

地理

アフガニスタンの地形は極めて変化に富んでいる.国土の約75%が山岳・高原地帯であり, その大部分をヒンドゥークシュ山脈が占める.ヒンドゥークシュ山脈は北東から南西方向に走り, 国土を貫く背骨のような存在である.最高峰はノーシャク山[7,492m]であり, パキスタン国境付近のカラコルム山脈の延長に位置する.北東のワハーン回廊はパミール高原の一部であり, 標高が非常に高い.

西部・南西部にはヘラート周辺のカラクム砂漠縁辺地帯やレギスタン砂漠[カンダハル南方]などの乾燥した低地が広がる.北部のアムダリヤ川沿いには比較的肥沃な平原が展開し, 綿花・小麦の農業地帯をなす.南東部にはガズニー高原[平均標高2,200m以上]が広がる.

主要河川はアムダリヤ川[北部国境], ヘルマンド川[南西部, 全長約1,150km, 最長の国内河川], カブール川[東部]などである.ヘルマンド川流域にはカジャーキーダム[1953年完成]があり, かつて「アフガニスタンのカリフォルニア」と呼ばれた農業地帯を潤した.

気候は大陸性で乾燥しており, 夏は高温・低地では摂氏45度を超えることもある一方, 冬は山岳部で氷点下30度を下回る厳しい寒さとなる.降水量は少なく, 首都カブールでも年間約300mm程度である.

歴史

古代・古典期

アフガニスタン一帯は古代から人類の居住地であり, 紀元前3000年頃にはインダス文明との交流があったと見られる.紀元前6世紀には, アケメネス朝ペルシャ[ハカーマニシュ朝]がこの地を支配し, バクトリア[現在の北部アフガニスタン]はその重要な州となった.

紀元前329年, マケドニアアレクサンドロス大王が東征の途上でこの地に侵入し, バクトリアソグディアナを征服した.アレクサンドロス大王バクトリアの貴族ロクサネと結婚し, 現在のバルフ付近に都市を建設したとされる.彼の死後, 後継者たちがセレウコス朝を建て, その後グレコ・バクトリア王国[紀元前256年頃–紀元前125年頃]が成立し, ギリシャ文化とオリエント文化が融合した独自の文明が花開いた.

紀元前2世紀ごろにはパルティア月氏[クシャーナ朝の前身]の影響下に入り, 1世紀にはクシャーナ朝が成立した.クシャーナ朝はインド・中央アジア・中国を結ぶシルクロード貿易の中継地として繁栄し, 仏教とヘレニズム文化が混合したガンダーラ美術を生み出した.バーミヤン[後に世界遺産に登録された大仏で有名]はこの時代の仏教文化の象徴である.

イスラム化と中世王朝

7世紀にアラブ・ムスリム軍がこの地に侵入し, イスラム化が進んだ.ウマイヤ朝, アッバース朝の下で徐々にイスラム教が普及し, 9–10世紀にはサーマーン朝がペルシャ・イスラム文化を振興した.

10–11世紀にはガズナ朝がガズニー[現アフガニスタン東部]を都として栄え, スルタン・マフムードはインドへの征服遠征を繰り返した.続くゴール朝[12–13世紀]は北インドをも征服し, デリー・スルタン朝の礎を築いた.

13世紀, チンギス・カンが率いるモンゴル軍の侵攻はアフガニスタンに壊滅的な打撃を与えた.バルフやヘラートなどの都市は徹底的に破壊され, 豊かな灌漑農業社会は長期的な退行を余儀なくされた.

14世紀末にはティムール[タメルラン]がこの地を征服し, ヘラートはティムール朝のもとでイスラム文化・芸術の一大中心地として再興した.「東方のフィレンツェ」とも称されたヘラートには, 詩人ジャーミーや細密画の巨匠ビフザードらが活躍し, 中世イスラム文化の黄金期を体現した.

ホータキー朝とドゥッラーニー朝

1709年, ミール・ワイス・ホータクが率いるパシュトゥーン人サファヴィー朝のカンダハル支配に対して反乱を起こし, ホータキー朝を建国した.1722年にはその息子マフムードがイランのイスファハンを占領し, サファヴィー朝を事実上滅亡させた.これは後にアフガン人が広く語り継ぐ英雄的事績となった.

1747年, アフマド・シャー・ドゥッラーニーがカンダハルで部族長たちのジルガ[部族会議]によって選出され, ドゥッラーニー朝[サドーザイ王朝とも]を創始した.これがアフガニスタン国家の真の起源とみなされており, アフマド・シャーは「アフガニスタンの父」と称えられる.彼はパシュトゥーン諸部族を統一し, 現在のアフガニスタン・パキスタン・イラン東部・インド北西部にまたがる大帝国を建設した.

しかし,アフマド・シャー・ドゥッラーニーが1772年に没した後,後継者争いが激化し王朝は急速に弱体化.19世紀初頭にはシャー・シュジャーとマフムード・シャーが王位をめぐって激しく争い,国家は分裂状態に陥る.この混乱に乗じたのが,同じパシュトゥーン人でも別部族[バラクザイ部族]出身のドースト・ムハンマド・ハーン.彼は実権を握って各地を支配下に置き, 1823年にはドゥッラーニー朝最後の君主シャー・マフムードを事実上追放する形で王朝を終焉させた.ドースト・ムハンマドは当初はアミールの称号を名乗り,1826年に正式にバラクザイ朝を樹立.なお,サドーザイ家とバラクザイ家は,どちらもパシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合に属していた.

英露のグレート・ゲームと独立

19世紀, 南下するロシア帝国と北上するイギリス[インド帝国]のあいだでアフガニスタンをめぐる覇権争いが激化した.この地政学的競合はグレート・ゲームと呼ばれ, アフガニスタンは両大国の緩衝地帯として重要な位置を占めた.

イギリスは3度にわたるアフガン戦争を戦った.第1次アフガン戦争[1839–1842年]では英国軍ドゥッラーニー朝のシャー・シュジャーを擁立しカブールを占領したものの, 撤退時にほぼ全滅するという屈辱的敗北を喫した.第2次アフガン戦争[1878–1880年]では英国が勝利し, アフガニスタンの外交権を掌握した.第3次アフガン戦争[1919年]を経て, バラクザイ朝アフガニスタンアマーヌッラー・ハーンは1919年8月に完全な独立を達成した.

20世紀の激動

独立後, アマーヌッラー・ハーン国王のもとで近代化改革が進められたが, 保守的な部族社会の反発を招き, 1929年に退位を余儀なくされた.同じバラクザイ家傍系のムサヒバン家のナーディル・シャーが即位.その後は王政が続き, 1933年に即位したムハンマド・ザーヒル・シャーのもとで比較的安定した時代が続いた[–1973年].

1973年, ムハンマド・ダーウードがクーデターによって王政を廃し共和国を宣言した.さらに1978年, 親ソ連のアフガニスタン人民民主党[PDPA]がサウル革命によって政権を奪取.社会主義的政策に対するムジャヒディーン[イスラム義勇兵]の抵抗が各地で激化した.

1979年12月, ソ連軍アフガニスタンに侵攻した.侵攻の際, アフガニスタン人民民主党[PDPA]の指導者で当時の最高指導者であり, ソ連への接近よりも独自路線を志向していたハフィーズッラー・アミーンがソ連の特殊部隊によって殺害されている.代わって, ソ連が傀儡として擁立したのがアフガニスタン人民民主党[PDPA]パルチャム派のリーダーであったバブラク・カルマルである.この介入はソ連にとって致命的な長期消耗戦となり, 米国・パキスタン・サウジアラビアらの支援を受けたムジャヒディーンの抵抗に直面した末, 1989年2月にソ連軍は撤退した.この時, パンジシール渓谷を拠点にソ連軍に対しても終始抵抗し続けたのがタジク人軍事指導者でパンジシールの獅子と称えられたアフマド・シャー・マスード司令官, ヘラートのアミールと呼ばれたタジク人のイスマイル・ハーン司令官からなる北部同盟[アフガニスタン・イスラム統一戦線], パシュトゥーン人であるグルブッディーン・ヘクマティヤール率いるイスラム党[ヘズベ・イスラミー], ハザラ人を代表するアブドゥル・アリー・マザリ率いるワフダット党, .

1992年にソ連が崩壊すると,ウズベク人の軍閥指導者であるラシッド・ドスタム将軍北部同盟側に寝返り, アフガニスタン人民民主党[PDPA]政権が崩壊.ペシャワール合意に基づき, まず,アフガニスタン民族解放戦線を率いた穏健派のモジャッディディーが2ヶ月間の暫定大統領を務め, その後,タジク人を主な支持基盤とするジャミアット・イスラミーという組織を率いたブルハヌッディーン・ラバニーが大統領として政権を引き継いだ.しかし,パシュトゥーン人を代表するはずのヘクマティヤールは首相に任命されたものの実際にはカブール入りを拒否して砲撃を行うなど,ムジャヒディーン諸派は権力をめぐって激しい内戦を展開した.この混乱の中から台頭したのがパシュトゥーン人を主体とするタリバン[「学生たち」を意味するパシュトー語]である.タリバンは1996年にカブールへと迫り,ラバニー大統領マスード司令官は戦わずしてカブールを明け渡す形で北部へ撤退.カブールを制圧したタリバンは, 厳格なシャリーア[イスラム法]に基づく統治を開始した.女性の就学・就労を禁じ, 音楽・テレビを禁止するなど, その苛烈な統治は国際社会の強い非難を受けた.また2001年3月には, ユネスコなどの反対を無視してバーミヤンの大仏像を爆破した.

9.11以降

2001年9月11日の米国同時多発テロを受け, 米国アルカイダを匿うタリバン政権に対して攻撃を開始した.同年11月にタリバン政権は崩壊し, 2002年にはラバニー政権下で外務省の次官補を務めていたハーミド・カルザイを暫定議長とする新政権が発足した.以後約20年間, 米軍とNATO軍が駐留し, 国家建設・民主化支援が試みられた.

しかし2021年8月, 米軍の撤退完了に合わせるようにタリバンが瞬く間に全土を制圧し, 再び政権を掌握した.民主的な共和国政府は崩壊し, カブールは混乱の中でタリバンの手に落ちた.タリバンは再びイスラム首長国の樹立を宣言し, 女性の就学・就労禁止など1990年代と同様の政策を復活させた.国際社会からの制裁と援助停止により, 経済は急激に悪化し, 深刻な人道的危機が継続している.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.





















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