ネパール連邦民主共和国

概要

ネパール連邦民主共和国は、ヒマラヤ山脈中央部に位置する内陸国であり、北を中華人民共和国、東・西・南をインドに囲まれている。首都はカトマンズである。

国土面積は約14万7,181平方キロメートルであり、日本の約4割程度の広さを有する。人口は約3,000万人規模で、多民族・多言語・多宗教国家として知られる。公用語はネパール語であるが、国内にはマイティリー語、ボージュプリー語、タルー語、ネワール語、タマン語など多数の民族言語が存在する(ネパール政府認定の言語数は100を超える)。

ネパールは世界最高峰エベレスト(ネパール名:サガルマータ、チベット語名:チョモランマ)を擁する山岳国家として著名である。なお「チョモランマ」はチベット語由来の呼称であり、中国語での正式表記は「珠穆朗玛峰(チュームーランマーフォン)」である。ヒマラヤの険しい山岳地帯から、中央丘陵地帯、南部タライ平原まで多様な自然環境を有している。

宗教的にはヒンドゥー教が最大宗教であるが、仏教との結び付きも極めて深い。特に仏教開祖ゴータマ・ブッダが現在のネパール南部ルンビニーで生誕したとされる点は重要である。長らく世界唯一のヒンドゥー王国として知られたが、2008年の王制廃止以降は世俗国家となった。

政治体制としては連邦共和制を採用しており、正式国名の「連邦民主共和国」は2008年の制憲議会によって定められたものである。現代ネパールは、王制・内戦・民主化・連邦制移行を経た複雑な国家形成過程の上に成立している。

地理

地形と自然環境

ネパール最大の地理的特徴は、南北方向に極めて急峻な高度差を有することである。国土南部のタライ平原は標高100メートル前後である一方、北部ヒマラヤ地域では8,000メートル級の山々が連なる。南北の幅はわずか150〜200キロメートル程度であるにもかかわらず、この高度差を有する点はきわめて特異である。

国土は大きく以下の三地域に区分される。

南部タライ地方はガンジス平原北縁に属する肥沃な低地であり、農業生産の中心地域となっている。気候は亜熱帯性であり、人口密度も高い。

中央部にはマハーバーラト山脈や中部丘陵地帯が広がる。首都カトマンズを含むカトマンズ盆地はこの地域に位置しており、古来より政治・文化・交易の中心であった。

北部にはヒマラヤ山脈主稜線が存在する。ネパール国内には世界14座の8,000メートル峰のうち8座が存在する。代表的な山としては以下が挙げられる。

河川は主にガンジス川水系へ流入する。コシ川、ガンダキ川、カルナリ川などが主要河川であり、ヒマラヤ氷河融水と季節性降水によって形成されている。

気候

ネパールの気候は高度によって大きく異なる。南部では高温多湿のモンスーン気候が支配的であり、夏季にはインド洋モンスーンによる大量降水が発生する。

一方、ヒマラヤ高地では寒冷高山気候となり、氷河や永久雪が広範囲に存在する。中央丘陵地帯では比較的温暖な気候がみられ、人間居住に適した環境が形成されている。

モンスーンによる集中豪雨は農業を支える一方、洪水・地滑り・土砂災害の原因ともなっている。また北部では、気候変動による氷河融解が進行しており、氷河湖決壊洪水(GLOF)のリスクも高まっている。

生態系と民族構成

ネパールは高度差に富むため、生物多様性が極めて高い。南部低地にはインドサイ(一角サイ)、ベンガルトラ、アジアゾウなどが生息し、北部にはユキヒョウやブルーシープ(バラル)など高山性動物が分布する。

民族構成も非常に多様である。主要な民族・社会集団としては以下が挙げられる。

この多民族構造は、後の政治対立や連邦制議論にも大きな影響を与えた。

歴史

古代ネパールと文明形成

ネパール地域には先史時代から人類居住が存在していたと考えられている。特にカトマンズ盆地は肥沃で交易に適していたため、古くから定住社会が形成された。盆地はかつて湖であったとされ、地質学的にもその痕跡が確認されている。

古代ネパール史において重要なのがキラト朝である。キラート人(ライ・リンブー系)はヒマラヤ系民族集団とされ、古代カトマンズ盆地を支配したと伝えられる。ただしキラート朝の詳細な実態については史料が限られており、伝説的性格が強い。

紀元前5〜4世紀頃(諸説あり)、現在のネパール南部ルンビニー地方でゴータマ・ブッダが誕生したとされる。当時、この地域にはシャーキャ族などを含む小共和国的国家群(共和制集団)が存在していた。

紀元前3世紀にはマウリヤ朝のアショーカ王が仏教保護政策を推進し、ルンビニー巡礼を行ってアショーカ石柱や仏教施設を建設したとされる。このアショーカ石柱は現在も現地に残存している。

リッチャヴィ朝とヒンドゥー・仏教文化

4世紀頃から9世紀頃にかけて、ネパールではリッチャヴィ朝が繁栄した(原文では「8世紀頃まで」とされていたが、リッチャヴィ朝の影響は9世紀頃まで続くとする見方が有力である)。この時代、インド文化の影響が強まり、サンスクリット文化やヒンドゥー教が発展した。

同時に仏教も引き続き栄え、ネパールではヒンドゥー教と仏教が融合的に共存する独特の宗教文化が形成された。この融合的宗教文化はネワール仏教としても知られ、現在まで継承されている。

カトマンズ盆地では寺院建築、彫刻、仏像制作など高度な都市文化が発展し、後のネワール文化の基盤が築かれた。またリッチャヴィ朝はチベットとも密接な交流を持ち、ネパール王女ブリクティがチベット王ソンツェン・ガンポに嫁いだとの伝承も残る。

マッラ朝時代

12世紀頃から18世紀半ばまで、ネパールではマッラ朝諸王国が繁栄した。特にカトマンズ盆地では、

の三王国が並立した。

この時代、ネワール文化は黄金期を迎えた。精巧な木彫建築、仏塔、寺院、美術工芸などが発展し、現在のカトマンズ盆地世界遺産群(ユネスコ登録1979年)の多くはこの時代に形成された。パシュパティナート寺院、スワヤンブナート(猿寺)、ボダナートなどがその代表例である。

一方で、三王国間の抗争は絶えず、政治的統一は進まなかった。この分立状態が後のゴルカ王国による統一を容易にした一因ともされている。

ゴルカ王国とネパール統一

18世紀中葉、丘陵地帯の小国ゴルカ王国の王プリトビ・ナラヤン・シャハが勢力拡大を開始した。

彼は約25年にわたる軍事遠征によって周辺王国を次々征服し、1768年にはカトマンズ盆地を制圧した。これによって近代ネパール国家の原型が成立した。

プリトビ・ナラヤン・シャハは、ネパールを「二つの石の間のヤムイモ(タルカリ)」と表現したことで知られる。これは北の中国(チベット)勢力と南のイギリス領インド勢力の間で独立を維持しようとする地政学的認識を示している。

彼の死後もシャハ朝は拡張を続け、現在のネパールをはるかに超える広大な領域を支配した時期もあった。

イギリスとの戦争とラナ体制

19世紀初頭、ネパールは拡張政策を進めていたが、英領インドとの国境紛争が激化し、英ネパール戦争(グルカ戦争、1814〜1816年)が勃発した。

1816年のスガウリ条約によってネパールはシッキムやクマオン・ガルワール地方など広大な領土を失ったが、完全植民地化は回避した。このためネパールは南アジアで数少ない独立を維持した国家となった。またこの条約により、イギリスはグルカ人(ゴルカ人)の英軍への徴募権を取得し、以後グルカ兵は英国軍の重要な戦力となった。

1846年には「コット虐殺事件」が発生し、ジャング・バハドゥル・ラナが政敵を粛清してラナ家による独裁体制を確立した。ラナ家は首相職を世襲化し、国王を形式的存在へ追いやった。

ラナ体制下では近代化が限定的に進められた一方、政治的自由は極めて制限された。対外的にはイギリスとの協力関係が強化され、グルカ兵は英軍の重要戦力として第一次・第二次世界大戦にも参加した。

民主化運動と国王親政

第二次世界大戦後、インド独立や反植民地主義の高まりを背景に、ネパール国内でも民主化運動が拡大した。

1950〜51年、国王トリブヴァンがインドへ亡命してインドの支援を得たことでラナ体制は崩壊し、シャハ王家による国王親政体制が復活した。しかし、政党政治は不安定であり、1960年にはマヘンドラ国王が議会を解散し、「パンチャーヤト制(Panchayat System)」と呼ばれる無政党制の国王直接統治体制を導入した。

この体制では国王権限が極めて強大であり、政党活動は禁止され民主化要求は抑圧された。

民主化と毛沢東派内戦

1990年、「人民運動(ジャナ・アンドラン)」によって民主化要求が高まり、マヘンドラの子ビレンドラ国王は複数政党制を認め、新憲法が制定された。

しかし、政治不安は継続し、1996年にはネパール共産党(毛沢東主義派)が武装蜂起を開始した。これが「ネパール内戦(人民戦争)」であり、10年間にわたって続いた。

毛沢東派(マオイスト)は農村部の貧困・格差問題を背景に地方農村部を中心に勢力を拡大し、国家全体を揺るがした。内戦では約17,000人以上が死亡したとされる。

2001年には、王族殺害事件が発生。国王ビレンドラと王妃・王族の多くが王宮内で殺害されるという衝撃的な事件であり、皇太子ディペンドラによる犯行後の自殺とされた。これによって王制への信頼が大きく揺らいだ。

王制廃止と共和国成立

2005年、ギャネンドラ国王(ビレンドラの弟)が全権掌握と議会解散を強行したことで反王制運動が激化した。

2006年、第二次人民運動によって国王権限は大幅に制限され、毛沢東派(マオイスト)も武装解除・和平交渉へ参加した。包括的和平合意が締結され、10年内戦が終結した。

2008年、制憲議会は王制廃止を決議し、ネパールは正式に「ネパール連邦民主共和国」となった。約240年続いたシャハ王朝(ゴルカ王朝)は終焉した。

連邦制憲法と現代ネパール

共和国化後も政治的不安定は続いた。民族問題、州境界問題、タライ平原のマデシ系住民による自治権要求運動(マデシ運動)などをめぐり憲法制定作業は難航した。

2015年9月には新憲法が公布され、ネパールは正式に7州からなる連邦制国家へ移行した。しかし同年4月にはゴルカ地震(マグニチュード7.8)が発生し、カトマンズ盆地を中心に約9,000人が死亡するなど甚大な被害が生じた(原文では「ネパール地震」としていたが、震源地にちなんで「ゴルカ地震」とも呼ばれる)。歴史的建造物も多数が倒壊・損傷し、復興は現在も続いている。

21世紀のネパールは、中国とインドという二大国の狭間で外交均衡を模索している。中国の「一帯一路」構想への参加(2017年覚書署名)や、インドとの伝統的な経済・人的結び付きの維持など、複雑な外交戦略が続いている。

基礎データ

面積14.7万平方キロメートル
人口2,870万人[2018]
首都カトマンズ
言語印欧語族インド・イラン語派インド語派パハール語群東パハール語群ネパール語
民族パルバテ・ヒンドゥー人,マガル人,タルー人,タマン人,ネワール人
宗教ヒンドゥー教,仏教,イスラム教
政体連邦民主共和制

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.





















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