ぶらぶら絵葉書

船圦川

千葉県浦安市当代島を流れていた船圦川(ふないりがわ)は、現在の船圦緑道にあたる水路であり、当代島の集落と漁業の歴史を考えるうえで重要な水路である。現在は川そのものが失われているが、かつては当代島の集落内を流れ、漁船の係留や出漁・帰港に利用されていた。当代島がかつて漁業を主要な生業とする地域であったことを考えると、船圦川は単なる排水路ではなく、集落の生活と生業を直接支える水路であったといえる。

「船圦」という名称も、その性格をよく表している。「圦」は水門や水路への出入口を意味する語であり、「船圦」は船が出入りする場所を意味する。当代島の船圦川は、集落内部から旧江戸川へ出るための水路として利用されており、漁師たちはここから船を出して江戸川を経て東京湾方面へ漁に向かったのである。

船圦川の成立については、現在の資料だけからその起源を一つの説に確定することは難しい。江戸時代初期に狩野浄天や田中十兵衛によって人工的に掘削されたものとする伝承がある一方、当代島周辺にはそれ以前から水路や低湿地が存在していた可能性もある。そのため、船圦川を単純に「江戸時代初期に新しく造られた人工河川」と断定するより、当代島の開発と水利整備のなかで形成された水路として理解するのが適切であろう。

船圦川を考えるうえで重要なのが、内匠堀との関係である。元和6(1620)年、田中内匠(田中十兵衛)と狩野浄天が幕府の許可を得て、現在の鎌ケ谷市道野辺付近にある囃子水から行徳方面へ水路を開削したとされている。この水路が内匠堀である。内匠堀は農業用水として利用される一方、余水や排水を流す用悪水路としての役割も持っていた。そして行徳方面から当代島へ達した内匠堀は、船圦川に接続していた。

この関係から見ると、船圦川は当代島だけに閉じた水路ではなかったことが分かる。鎌ケ谷方面から行徳方面へ延びる水利体系の末端に位置し、周辺の農地の灌漑・排水とも関係していたといえよう。すなわち、船圦川には農業水利という側面と、江戸川へ船を出すための水運・漁業という側面が重なっていたといえる。

当代島そのものも、こうした水辺環境の上に形成された集落である。江戸時代から近代にかけての当代島は、水田を耕作する農業と、江戸川・東京湾で漁をする漁業が併存する半農半漁の地域であった。集落のすぐ近くに水路があり、その水路が江戸川につながっていたことは、漁業を営むうえで非常に大きな意味を持っていた。

特に近代から昭和前期にかけて、船圦川は漁師町としての当代島を特徴づける水路となった。浦安では境川と船圦川が漁船の係留場所として利用され、多数の小型漁船が水路沿いに並んでいた。昭和27(1952)年頃の浦安では、「べか舟」と呼ばれる小型の船が漁業に広く用いられていた。船圦川は、このような船が集落から直接江戸川へ出入りするための水路であった。

従って、当時の船圦川は現在の感覚でいう「川」とはかなり性格が異なっていた。川沿いには住宅があり、そのすぐ脇に漁船が係留され、漁に出る人々が水路を日常的に利用していたのである。船圦川は道路と同じように、当代島の生活を支える交通空間でもあった。陸上では集落内の道を人が行き来し、水上では船圦川を通じて漁船が江戸川へ出ていくという構造である。

船圦川の規模も、単なる細い側溝とは大きく異なっていた。かつての船圦川は全長約550メートル、川幅12メートル余りとされる。現在の船圦緑道からは想像しにくいが、現在の緑道が占める細長い空間には、かつて相当な幅を持つ水面が存在していた。

この水路と集落の関係を考えると、当代島の旧市街の道路や宅地の配置にも、船圦川の存在が影響していたと考えられる。水路は単に土地を分断する障害物ではなく、漁業を営む人々にとっては生活に必要な公共的空間であった。そのため、船圦川沿いには漁業に関係する住宅や施設が集中し、水路と宅地が一体となった独特の集落景観が形成されていた。

船圦川の歴史を大きく変えたのは、昭和30年代以降の浦安の社会・環境の変化である。高度経済成長にともなって周辺地域の都市化と工業化が進み、東京湾の水質環境が悪化。浦安の漁業も大きな影響を受け、漁獲量は減少していった。ノリ養殖やアサリ漁などによって成り立っていた浦安の漁業は次第に衰退し、漁業権の放棄と海面埋立が進められることになる。

漁業が衰退すると、船圦川の役割も失われていった。漁船が頻繁に出入りする水路として維持する必要性が低下し、さらに当代島では水田や空地が住宅地へと転換され、都市化が進行した。昭和40年代には地下鉄東西線の開通などによって浦安の都市化が一段と進み、当代島も漁師町から住宅地へと大きく姿を変えていった。

船圦川は昭和40年代後半まで存在していたとされ、その後、昭和48(1973)年に埋立工事が始まった。川を埋め立てた後、その跡地は道路や緑地として利用されることになった。昭和52(1977)年には川跡の道路中央部に緑地が整備され、現在の船圦緑道につながる空間が形成された。

現在の船圦緑道は、その意味で単なる公園や歩行者空間ではない。そこにはかつて船圦川という水路があり、その水路が当代島の集落を横断していたという歴史が刻まれている。緑道の細長い形状そのものが、かつての川の平面形をほぼそのまま受け継いだ歴史的な土地利用の痕跡を今に伝えている。

さらに重要なのは、船圦川跡を追うことで、現在の浦安市の都市構造と、かつての水郷的な土地利用との違いを具体的に理解できることである。現在の当代島では住宅や道路が連続しているため、水路が存在した時代の景観を想像することは容易ではない。しかし、船圦緑道の位置を旧地形や旧水路と重ねて見ると、現在の都市空間の内部に、かつての水路網が線状の痕跡として残っていることが分かる。

また、船圦川を内匠堀や旧江戸川との関係から見ると、当代島が孤立した集落ではなかったことも明らかになる。内匠堀によって内陸側の水利体系と結ばれ、船圦川によって江戸川へ接続し、さらに江戸川を通じて東京湾へつながっていた。当代島の水路は、農業、排水、漁業、水運という複数の機能が重なった水のネットワークを形成していた。

千葉県浦安市当代島@2026-09.


今日も街角をぶらりと散策.
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