

日本ビルヂング
日本ビルヂングは, 戦後東京のビジネス街の形成を象徴する建築物であり, 大手町・丸の内地区の発展史において特筆すべき位置を占める存在であった.1962[昭和37]年7月に「大手町三丁目ビルヂング」として竣工し, 1965[昭和40]年11月に大規模増築が完成して「日本ビルヂング」に改称された.三菱地所の主導で大成建設の施工により建設され, 鉄骨鉄筋コンクリート造による堅牢な構造と, 延床面積173,016平方メートル[約5万坪]という当時東洋有数の規模を備え, 金融機関や新聞社, 商社など, 戦後日本経済の基幹産業を担う企業が多数入居した.そのため日本ビルヂングは, 大手町が日本経済の中枢機能を集積する都市空間へと変容していく過程において, 中心的役割を果たした建物であった.
建設の背景には, 1964[昭和39]年東京オリンピックを控えた都市インフラ拡充の必要性と首都高速八重洲線の建設計画があり, 東京都と三菱地所が共同で再開発を進めた.三越の配送所跡地と興農会館の跡地約1,680坪に, まず1962[昭和37]年7月に「大手町三丁目ビルヂング」[地下2階・地上9階建, 延床面積約46,335平方メートル=約14,009坪]が竣工し, 三越の配送所や日立製作所などが入居した.その後, 1963[昭和38]年12月に2期工事が着工され, 1965[昭和40]年11月に地下4階・地上14階建, 延床面積173,016平方メートル[約50,049坪]の大規模ビルとして竣工し, この時に「日本ビルヂング」に改称された.さらに1968[昭和43]年8月には永代通り側の低層部の増築が完成し, 3期にわたる工事により東洋一級の規模のビルとなった.
外観は白い花崗岩とステンレス, 白タイル貼りの戦後モダニズムの潮流を反映した端正なデザインで整えられ, 地上14階・地下4階, 最高軒高50.7メートル, 最高部51.4メートルという体躯は, 当時の大手町地区において圧倒的な存在感を示した.建物のコーナーの曲線部が巨大ビルの威圧感を和らげており, 正面玄関上には「日本ビルヂング」という金文字が掲げられ, 昭和の趣きを感じさせた.内部のエントランスホールは二層吹き抜けで, 2階にはバルコニーが設けられ, 1階を見下ろせるつくりとなっていた.階段やエレベーターホールの壁面は縦ストライプの大理石貼りで, 金属製の手すりは繊細にしてシャープな印象のデザインであった.大規模なオフィスフロア[基準階面積約2,335坪], 会議機能, 商店などを内部に備え, ビルそのものが「都市的複合体」として機能した点も特徴である.
地下3階から地上3階までには東京都下水道局の庁舎機能[事務所]が入居し, その上階を民間企業が使用するという「空中権」利用の先駆けとなった.また, 地下には下水ポンプ所が設けられ, 東側の新日本製鉄本社ビル[1970[昭和45]年竣工]との間の中央通路地下2〜3階には駐車場が, 地下4〜5階には東京電力の変電所が収容され, 1973[昭和48]年には首都高速常盤橋出入口がビル地下駐車場に接続された[同出入口は2016[平成28]年3月に供用終了].1966[昭和41]年開業の地下鉄東西線大手町駅とは, 開業後に整備された地下通路によって直結した.こうした設備と立地により, 日本ビルヂングは高度経済成長期における企業活動の拠点として高い評価を受け, 丸の内・大手町地区におけるオフィスビルの標準を事実上提示する存在となった.
日本ビルヂングは, 1964[昭和39]年に建築基準法の「特定街区制度」適用第1号となり, 当時31メートルに制限されていた高さ制限を超えて14階建てで建設することが可能になった.
2013[平成25]年に放映されたテレビドラマ『半沢直樹』では, 東京中央銀行京橋支店の設定でロケ地として使用され, 改めて注目を集めた.しかし建物の老朽化と都市構造の変化に対応する必要性から, 大手町一帯は二十一世紀初頭に大規模な再開発へと踏み出し, 日本ビルヂングは2016[平成28]年4月から部分的に解体が始まり, 残りの区画は2022[令和4]年9月末日に閉鎖され, 同年10月から本格的な解体工事が行われた.解体後の跡地には高さ約390メートル, 地上63階建の日本一の超高層ビル Torch Tower を含む最新の防災性能と環境性能を備えた新たなビル群が整備され, 国際拠点としての大手町の性格をさらに強める街区へと再編されている.
横にチラリと見えているのは,これも今は無い新日鐡ビルヂング.
東京・千代田区大手町@2023-03

今日も街角をぶらりと散策.
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