源頼光朝臣塚
源頼光朝臣塚は, 京都市北区紫野十二坊町に所在する上品蓮台寺の境内にある石碑・塚である.この塚は通称蜘蛛塚と呼ばれ, 境内北側の椋[ムクノキ]の根元付近に石標が立てられている.塚が示す場所は古くからの葬送地である蓮台野に含まれ, 現在の石標は伝承上の源頼光に連なる塚を指し示すものである.
源頼光[みなもとのよりみつ]は平安時代中期の武将であり, 生没年は948年から1021年とされる.清和源氏の棟梁源満仲の長男で, 河内源氏の祖でもある.藤原摂関家, 特に藤原道長に仕えて摂関政治を軍事面で支え, 渡辺綱, 坂田公時[金時], 碓井貞光, 卜部季武らの頼光四天王を従えた軍事的活躍や, 大江山・酒呑童子退治, 土蜘蛛退治などの武勇伝説で知られる歴史的人物である.史実としては正暦4[993]年に正五位下に叙せられ, 長徳2[996]年には美濃守に任じられるなどの官歴があるが, その多くの物語は後世に伝承・説話化されており, 史実と伝説を厳密に切り分けて扱う必要がある.
上品蓮台寺の源頼光朝臣塚が蜘蛛塚と呼ばれる所以は, 謡曲『土蜘蛛』や『平家物語』剣巻, 『源平盛衰記』などに伝わる土蜘蛛あるいは山蜘蛛の説話にある.物語群の一つでは, 頼光が高熱[瘧病, マラリア様の熱病とされる]に倒れているところに僧の姿で現れた蜘蛛の精を名刀・膝丸[後に蜘蛛切と称される]で退治し, 家来たちが血の跡を追って古い塚を掘り起こして巨大な蜘蛛を討ったという筋書きが語られる.この際, 蜘蛛の体長は4尺[約1.2メートル]にも及んだとされる.こうした伝承が地域の古い塚と結びつき, 塚を頼光に関連づけて蜘蛛塚と呼ぶ風習が生じたのである.
塚そのものは近代に至って所在が変遷した記録があり, もともとは千本鞍馬口付近[現在の千本通と鞍馬口通の交差点近辺]にあったものを明治時代後期から昭和初期にかけて現在地へ移したとする伝承や記録が残る.移転の理由は都市開発や道路整備に伴うものとされている.
考古学的・史料学的な観点からは, 本塚が源頼光の実際の墓であると証明する史料や遺跡的裏付けは存在しない点を強調すべきである.源頼光の実際の墓所は兵庫県川西市の多田神社にあるとされ, そこには頼光廟が現存している.上品蓮台寺の塚はむしろ伝承を記念する碑的な性格が強く, 地域の物語[謡曲・能・狂言, 歌舞伎, 浄瑠璃等]と結びついた民俗的・信仰的な史跡である.京都市などの公的な記録でも伝承される塚を示す石標といった表現が用いられており, 学術的には伝承地として扱うのが妥当である.
土蜘蛛という語は民間伝承上の怪異を指すだけでなく, 歴史的には『古事記』や『日本書紀』の時代から朝廷に従わない地方の有力者や土豪, 特に山間部や僻地の首長を意味する語として用いられる文脈もあり, 妖怪説話と社会史的実像とが重なって伝承が形成されたと考えられている.したがって土蜘蛛退治の物語は単なる怪異譚であると同時に, 中央権力と地域勢力との軋轢や支配関係を反映した寓意的な物語, さらには平安時代の武士の台頭と摂関政治の軍事的基盤を象徴する物語であるとも解釈されている.
京都市内には蜘蛛塚と称する塚が複数伝わっており, 上品蓮台寺以外にも北野天満宮近辺や一条戻橋付近にも同様の伝承地が存在する.同一の伝承が複数の場所に重層的に残る点も注目される.これは口承文学の特性として, 物語が語り継がれる過程で異なる地域の地理的特徴や信仰と結びつき, 各地で独自の発展を遂げたことを示している.
なお, 上品蓮台寺自体も平安時代に創建された古刹であり, 蓮台野という葬送地の中核的な寺院として機能してきた歴史がある.寺院の性格上, 多くの塚や供養塔が境内や周辺に存在し, その中の一つが源頼光の伝承と結びついたものと考えられる.現在でも地域住民や源頼光を慕う人々, 古典文学愛好者などが訪れる史跡として親しまれており, 日本の伝承文化と民間信仰の在り方を示す貴重な文化遺産である.
@2024-12
今日も街角をぶらりと散策.
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