後楽園
岡山の後楽園は,旭川の流れをはさんで岡山城の対岸に広がる大名庭園であり,江戸期に形成された回遊式の景勝庭園として金沢兼六園,水戸偕楽園とともに日本三名園の一に数えられる名所である.広さは約13ヘクタールに及び,広大な芝生地が主景をなす構成は,日本庭園としては稀有で開放感に富む.園内からは借景として岡山城天守が望まれ,城下と庭園が水面と橋でゆるやかにつながる地取りが,城下町岡山の都市景観を今日に伝えている.
成立は江戸前期,岡山藩主池田綱政が延宝4[1676]年に着手し,十四年の歳月をかけて元禄13[1700]年頃にほぼ完成をみたとされる.庭園は藩主の「後園」として政務や饗応,休息の場に用いられ,池泉・築山・芝地・茶屋・能舞台などをめぐる回遊動線が整えられた.明治4[1871]年には,その名を中国古典『孟子』の「先憂後楽」にちなむ「後楽園」と改め,以後は近代都市の中で歴史庭園として保存の歩みをたどることになる.
空間構成の核は沢の池と唯心山である.沢の池は園中最大の水面で,州浜や中島,反橋の配列が視線を導き,周遊にともなって景の奥行きと起伏が次々に現れる.唯心山は築山であり,頂部からは池・芝・松林が重層する立体的な景観の背後に,旭川越しの岡山城が浮かび上がる.園路は「見立て」と「見切り」によって遠近感を巧みに制御し,借景を意識化するよう設計されている.城と庭は月見橋で結ばれ,川景と城郭景が庭の眺望に取り入れられる構図が意図されている.
建造物群も庭の性格を雄弁に物語る.延養亭は藩主来園の際の御座所で,庭内外の眺望を同時に取り込むよう周到に方位・構えが定められている.能舞台と詠松之間は藩主自らが愛好した能の上演空間で,三方を座敷が囲み,饗応と鑑賞の場が一体化する.流店は園内を流れる曲水の上に架けられた休憩所で,水音と涼気を取り込む造りが特徴である.園には水田や茶畑も設けられ,藩領の生業や年中行事を庭内に象徴化する「写実」と「象徴」の二重性が意識的に織り込まれている.往時には丹頂鶴が飼われ,現在も岡山県や関係機関との共同研究の一環として鶴舎で数羽を飼養しており,庭園文化と動物保護の接点が保たれている.
後楽園は幾度か大きな災禍を受けた.昭和9[1934]年の室戸台風により園内の多くの樹木が倒伏し,昭和20[1945]年6月29日の岡山空襲では延養亭をはじめとするほぼ全ての建造物が焼失したが,戦後は江戸期の成立当初の絵図や文献に基づく復原整備が段階的に進められ,昭和35[1960]年には延養亭の復原が実現した.庭園全体は昭和27[1952]年に国の特別名勝に指定され,以後は文化財としての学術的知見に裏づけられた保存管理が続けられている.
植栽は松・楓・梅・桜・花菖蒲・蓮など四季の変化を明瞭に描き出す構成で,芝地の明るさと常緑の針葉が骨格を保ちながら,春秋の花木が季節の峰をつくる.とりわけ沢の池畔から唯心山を仰ぐ眺め,延養亭前庭から池・橋・築山・城を同一視界に収める眺め,流店で水面近くに身を置く体験など,観照の場面ごとに光・風・水音が織り合わさって,庭を「歩いて味わう建築」として成立させている点に後楽園の特質がある.芝地の大きな開きは静けさと余白をもたらし,茶屋や四阿の点景は人の滞在と移ろいをやわらかく導く.城下の景と川景を抱き込む構図は,単なる私的庭園を超えて都市景観の中枢としての「見られる庭/見る庭」の両義性を今日まで保っているのである.また,現代では年間を通じて「幻想庭園」などの夜間ライトアップや季節の特別公開も行われ,伝統的な庭園美に新たな魅力が加えられている.
@2025-08
今日も街角をぶらりと散策.
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