ぶらぶら絵葉書

旧千住製絨所煉瓦塀

旧千住製絨所煉瓦塀は,東京都荒川区南千住[旧東京府南千住町字関屋]に現存する明治期の工場遺構であり,日本における近代産業の黎明期を象徴する貴重な歴史的建造物である.千住製絨所は,明治政府の殖産興業政策の一環として設立された官営工場の一つであり,日本陸軍の軍需品としての毛織物を製造することを主目的として,1879年[明治12年]9月27日に創業された.明治維新後,新政府の軍服・制服は輸入により賄われていたが,外貨減少を抑えるため国産化が急務となった.まず1875年[明治8年]9月,千葉県に牧羊場が設けられ羊毛の生産が開始された.同年中に被服製造技術を学ぶためドイツに派遣されていた旧長州藩士の井上省三の帰朝をもって,東京・南千住の荒地[現・荒川区南千住6丁目]に千住製絨所が完成,操業を開始した.

千住製絨所の初代所長となった井上省三[いのうえしょうぞう,1845年11月14日–1886年12月14日]は,「日本の毛織物工業の父」と呼ばれる重要な人物である.長門国厚狭郡宇津井村[現山口県]出身の井上は,奇兵隊隊長として倒幕に参加し,維新後は木戸孝允に随い上京した.1871年[明治4年]2月からベルリンに留学し,当初は兵学を目的としていたが,殖産興業に転向し織物工場にて製絨技術を学んだ.1875年[明治8年]に帰国し,内務省勧業寮へ出仕した.官営の製絨所設立準備のため再びドイツへ向かい,機械の購入や技師を雇い入れ,ドイツ人女性ヘードビッヒと結婚して帰国した.1879年[明治12年],日本初となる毛織物工場「千住製絨所」の開業に際し,初代所長として日本の毛織物工業の礎を築いた.しかし,志半ばで1886年12月14日に病気で42歳の若さで亡くなった.なお,未亡人となったヘードビッヒは,省三との間にもうけた一人娘のハナを伴って1887年2月にドイツに帰国している.

製絨とは毛織物の仕上げ加工工程を指し,具体的には布地の表面に毛羽を立たせて柔らかくし,保温性や耐久性を高めるための処理を行う.千住製絨所は当初,ドイツから導入した機械を用いて操業され,軍服用の毛織物を生産していた.1883[明治16]年12月29日に民間への技術移転の役割を果たし,1888[明治21]年には陸軍省直轄となった.その後,日清・日露戦争を経て軍需の増大とともに規模を拡大し,明治から昭和初期にかけて東京における重要な工業施設として位置づけられた.

煉瓦塀は,この工場の敷地境界を構成するものであり,明治44[1911]年から大正3[1914]年頃にかけて構築されたとされている.赤煉瓦を積み上げた構造は,当時の西洋建築技術の影響を受けており,意匠性と耐久性を兼ね備えたものであった.煉瓦の積み方はイギリス積と呼ばれる方式で,水平線と垂直線が整然と組まれた美しい構造を呈している.また,塀には鉄製の柱や装飾的な笠木も一部に用いられ,工場施設としての実用性と都市景観との調和が図られていた.

現在残存する煉瓦塀は,ライフ南千住店の駐車場脇や隣接する都市公園沿いに位置している.

昭和戦後期になると,千住製絨所は民営化・統合を経て他社の工場として再編され,やがてその多くの施設は取り壊された.しかし,煉瓦塀のみが取り残されるかたちで現在まで保存されており,往時の工場規模や当時の都市計画,そして産業遺産としての価値を今に伝えている.昭和11[1936]年12月14日には,井上省三没後50年を記念して,千住製絨所構内に「東京千住製絨所初代所長井上省三胸像」が建設された.現在,煉瓦塀は荒川区により登録有形文化財[歴史資料]として指定され,保存対象とされている.工場跡地に整備された都市公園の一部として公開されており,一般の人々が見学できる状態となっている.

旧千住製絨所煉瓦塀は,単なる工場遺構ではなく,近代日本が西洋技術を導入し国家的規模で工業化を進めた時代の証人である.煉瓦という素材を通じて,明治国家の建設と軍事産業の発展,さらには都市と産業の接点としての東京の変遷を体現する重要な歴史的構造物である.特に井上省三という一人の人物の功績とその志を物語る貴重な歴史遺産として,現在もその価値を保持し続けている.

@2023-06


今日も街角をぶらりと散策.
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