竹原の町並み
広島県竹原市は,瀬戸内海に面した中世以来の港町であり,製塩業や酒造業によって栄えた歴史的な町である.現在も旧市街地には江戸時代から明治時代にかけての伝統的建築が数多く残されており,「安芸の小京都」とも称される景観を形成している.とりわけ「たけはら町並み保存地区」は,昭和57年[1982年]12月16日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され,歴史的価値の高い町並みとして広く知られている.
竹原の起源は,平安時代に荘園として開かれたことに始まる.具体的には,賀茂別雷神社[上賀茂神社]に由来する竹原荘が置かれたとされるが,荘園名の確定には史料的な検証が必要である.また,建久5年[1194年]には源頼朝の重臣であった後藤実基[定基ではなく,実基が正しいとされる]が当地の守護として赴任し,山城国の賀茂大神を勧請して創建したと伝えられる神社が残されている.この頃から海運と農業を基盤とした集落が形成され,以後,港町としての性格を強めていった.
近世に入ると,竹原は瀬戸内海交通の要衝として港が整備され,特に江戸時代には入浜式塩田による製塩業が急速に発展した.竹原の塩は「竹原塩」として上方において高く評価され,大阪や京都への輸送が盛んに行われた.加えて,廻船業や酒造業も発達し,竹原は地域経済の中心として栄え,町人文化も大いに隆盛した.製塩と海運によって蓄積された富は,豪商を生み出し,格式ある商家や土蔵造の建物,長屋門などが町の景観を形成するようになった.
町並み保存地区は,現在の本町一丁目,三丁目,四丁目の一部に広がる約5.0ヘクタールの区域であり,江戸中期から明治期にかけて建てられた本瓦葺・塗屋造の町家が建造物の大半を占めている.格子戸,白壁土蔵,なまこ壁など,瀬戸内地方特有の建築意匠が連続する重厚で繊細な町並み景観を構成している.とりわけ,竹鶴酒造は近代日本のウイスキーの祖である竹鶴政孝の生家として知られ,その旧宅も保存対象となっている.また,数寄屋造の優れた意匠をもつ座敷や庭園を有する家屋も多く,格子窓と中庭を備えた町家が連続する様は,まるで江戸時代に時が戻ったかのような錯覚を観光客に与える.町の中央部には西方寺や照蓮寺などの宗教施設が点在し,商業と信仰が融合する在郷町としての歴史的性格も色濃く残されている.
明治以降,製塩業は衰退し始め,それに代わって酒造業や木材業が竹原の経済を支えるようになったが,昭和期にはそれらの産業も徐々に縮小し,町の活力は一時低下した.しかし,1970年代以降になると,町並みの歴史的価値が再評価され,保存活動と観光振興が連動する形でまちづくりが進展した.1982年の重要伝統的建造物群保存地区への選定を契機に,景観の修復や建築物の保存が本格化し,以後,自治体や住民の協働による取り組みが継続的に行われている.
平成以降,竹原は多角的な魅力の発信に力を入れ,NHK連続テレビ小説『マッサン』では,竹鶴政孝の出身地として脚光を浴びた.また,アニメ作品『たまゆら』の舞台となったことで若年層からの注目も高まり,町は再びにぎわいを見せるようになった.こうした文化的資源の活用は,単なる懐古的観光地という域を超えて,竹原という地域固有の文化的アイデンティティを再構築する重要な営為となっている.
現在の竹原は,歴史・文化・景観が一体となった貴重な都市遺産であり,瀬戸内の穏やかな自然環境と共鳴しながら,過去と現在をつなぐ場としての存在感を維持している.町並み保存地区を中心に,伝統産業や地域行事も積極的に継承されており,観光地であると同時に「生きた歴史都市」としての風格を今なお保ち続けている.竹原まちづくり推進協議会などの市民組織による保存活動や,若年層による新たな活用方法の模索も着実に進んでおり,伝統の継承と現代的魅力の創造が共存する,持続可能な歴史的町並みとしての価値が一層注目されている.
@2010-10
今日も街角をぶらりと散策.
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