土呂陣屋

埼玉は大宮公園駅の近くにあるお館。

この館は武田氏滅亡後に徳川家康に仕えた初鹿野昌久が武蔵・下総両国に700石を得て構えたものと伝わります。

初鹿野氏は甲斐武田家第7代・武田信時(1220-1289)の三男初鹿時平に始まる武田氏庶流で甲斐都留郡初鹿野郷を所領とする家。

第19代・武田晴信(1521-1573)の代に、初鹿野伝右衛門高利(1505-1548)は1548(天文17)年に信州上田原における北信濃の戦国大名の葛尾城主・村上義清(1501-1573)との戦いで討死。初鹿野源五郎忠次(1533-1561)が跡を継ぎます。この忠次が第4次川中島の戦いで討死。

初鹿野の家名は、都留郡国衆の加藤虎景の子の弥五郎昌久によって引き継がれました。加藤虎景は山本勘助と並ぶ武田家の軍師であり、加藤虎景は第4次川中島の戦いで討死した山本勘助の首を持ち帰った人物としても知られています。

1582(天正10)年に天目山で武田勝頼・信勝が織田信忠配下の滝川一益に攻められ自刃し武田宗家が滅亡すると、初鹿野昌久は徳川家康に仕えました。

そして、1590(天正18)年の徳川家康の江戸入府に伴って土呂村の領主となって館を構えました。もっとも、館を構えた地には中世からの館が既にあったと考えられています。昌久の跡は子の信吉が継ぎ旗本として存続しました。

御嶽社は初鹿野昌久が甲斐から氏神を勧請したもの。明治40年に神明社に合祀されましたが、昭和41年に旧地に再興されました。

2015年11月7日訪問