市原城

市原城は里見氏に属する忍丹波守の守る城だったと伝えられています。

もっとも、関八州古戦録によると、1554(天文23)の北条氏康による久留里城攻撃の時点で、市原城主芦野丹波守の弟・丁民部少輔が里見方として戦ったとあります。この丁民部少輔が忍丹波守と何らかの関係があるのでしょうか。あるいは、里見軍の城将として忍丹波守や丁民部少輔が駐屯していたということなのか定かなことは不明です。「忍(おし)」と「芦野(あしの)」は読みも似ていますし、忍丹波守も芦野丹波守も受領名が同じ丹波守であるから同一人物なのかもしれません。この忍丹波守は里見義堯と北条氏康が戦った第二次国府台合戦(1564)にも参軍したことが知られています。

現在は光善寺となっている城址の前の道は空堀の跡だと伝わります。この空堀から鐙が発掘されたとも言われています。かつてあった土塁から市原市埋蔵文化財調査センターが刀傷のある15体分の頭蓋骨を発掘しているともいいますから、ここで激戦が繰り広げられたことだけは確かなようです。

上の写真は忍丹波守の使ったと伝わる井戸です。

なお、近くにある能満城は忍民部少輔が城主だったと伝わりますので、忍丹波守の市原城とは一族で連携していたのでしょう。