本庄城

宮崎県は国富の本庄にあるお城。鎌田城とも呼ばれ、伊東48城の一つに数えられます。

伊東48城は日向伊東第10代・伊東義祐(1512-1585)、第11代・伊東義益(1546-1569)の代に伊東家の版図内にあった48の城のこと。

1432(永享4)年に、薩摩・大隅・日向守護の島津忠国(1403-1470)が国富の六野原(むつのばる)に侵攻。伊東祐安(-1434)・伊東祐立(1385-1444)父子率いる伊東軍が島津軍と干戈を交えました。この河骨合戦によって、本庄城は伊東祐安(-1434)の支配下に入り川崎兵部丞が城将を務めます。

時代は下って、1572(元亀2)年、島津氏15代当主・島津貴久(1514-1571)が没すると大隅の肝付兼亮(1558-1634)が島津領に侵攻。これを好機とみた日向伊東氏第10代の伊東義祐(1512-1585)が同じく島津領への侵攻を開始します。そして、大軍をもって寡兵の守る加久藤城を攻めるも敗北(木崎原の戦い)。この戦いで伊東軍は5人の大将を失います。

これを契機として島津軍は伊東領に侵攻。伊東48城は次々と攻略され、1577(天正5)年には日向の有力国人の土持氏も伊東家に叛旗を翻します。ここに伊東義祐は日向を去って豊後の大友宗麟を頼って落ち延びることを決意します(伊東崩れ)。

伊東義祐の日向復帰の願いを聞き入れた大友宗麟(1530-1587)は日向高城川原に出兵。島津氏第16代当主の島津義久(1533-1611)と対峙します。この時の大友軍は交戦派の田北鎮周と和平派の田原親賢が対立。田北鎮周が独断専行で戦端を開いてしまいます。耳川でなし崩し的に始まった戦いは兵力で勝る大友軍が最初は優勢だったものの徐々に押され、遂には島津軍によって壊滅に近い状態に追い込まれてしまいます。

木崎原の戦いから耳川合戦の間に本庄城は島津家の支配下となりました。