椎津城

千葉は市原の姉ヶ崎にあるお城。

1325年頃に椎名胤仲が築城したのが始まりとされています。椎名氏は、千葉介常重の子の胤光が千葉庄椎名郷を領したことが起源。千葉宗家の重臣として活躍しました。椎名胤仲は椎名胤光の子の胤高の孫に当たります。

1335(建武2)年に三浦高継が上総国真野郡椎津郷の田地一町を鶴岡八幡宮に寄進していることから、その子孫の三浦定勝が応仁年間(1467-69)に築城したとも伝えられています。

1420(応永27)年から1430(応永30)年に掛けて小山田上杉定頼が上総守護であった可能性が高いと考えられています。その後、犬懸上杉禅秀の娘を母に持つ千葉胤直(1419-1455)が1448(文安5)年から守護を務めました。つまり、上総国は上杉氏の影響下に置かれていたと考えられます。

1455(享徳3)年、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を暗殺し享徳の乱が勃発。千葉胤直は第8代室町幕府将軍・足利義政(1436-1490)からの御内書を受けて、山内上杉憲忠の弟で兄を継いで関東管領となった山内上杉房顕(1434-1466)に与して戦うことになります。千葉胤直はもともと上杉氏と親しい関係にありましたが、家中は親上杉派の円城寺尚任と反上杉派の馬加康胤、原胤房とが対立していました。

ここで、原胤房が千葉宗家一族の馬加康胤を宗家に擁立し胤直・胤宣父子を千葉城から駆逐し自刃させます。千葉胤直の弟の胤賢も滅ぼされましたが、その子である実胤・自胤兄弟は市河城に籠城。これを古河公方軍が攻撃し実胤・自胤兄弟を扇谷上杉家の支配する武蔵国に追いやります。

その同じ1456(康正2)年に甲斐守護の武田信満(-1417)の息子の武田信長(-1477)が、古河公方足利成氏の命を受けて上総守護代に任じられて上総国へと侵攻したのです。この侵攻によって、椎津にあった三浦定勝は所領を奪われたと考えられます。三浦一族は扇谷上杉氏の重臣でしたので、古河公方にとっては敵ということになります。

武田信長は真里谷城と庁南城を築き、両上杉家が千葉氏復興のために侵攻した下総への備えとして椎津城、佐是城を支城として取り立てます。

真里谷武田恕鑑(-1534)は、1518(永正15)年、自らの版図拡大のため、第3代古河公方足利高基(1485-1535)の弟の足利義明(-1538)を小弓公方として擁立。これによって、古河公方方の同族の庁南武田氏を凌ぐようになります。

当初は扇谷上杉朝興(1488-1537)の領土を浸食しつつあった北条氏綱(1487-1541)と手を組んでいましたが、1524(大永4)年に、扇谷上杉朝興が古河公方足利高基と和睦し、北条氏への反撃を開始すると、真里谷武田恕鑑は扇谷上杉朝興と同盟を結びます。

1533(天文2)年、北条氏綱が上総侵攻のために、里見実堯と安房水軍を率いる正木通綱に接近。これに対して、稲村城にあった里見家当主である里見義豊が小弓公方足利義明の了解の下で、上総金谷城の叔父実堯と正木通綱を暗殺します(「稲村の変/天文の内訌」)。

里見実堯の子の義堯は金谷城を落ち延びて、正木時茂・時忠兄弟とともに百首城に籠城。北条為昌が上総に援軍として上陸し、里見義豊を駆逐します。この結果、里見義豊は上総の真里谷恕鑑の下へ落ち延びます。里見義豊は真里谷武田氏領の大戸城から安房に侵攻しますが敗れて自刃。小弓公方方の里見義豊を救えなかったことで、真里谷恕鑑は小弓公方足利義明の勘気を蒙り憤死してしまいます(1534年)。

真里谷武田恕鑑の後継は真理谷信隆と決まっていましたが、小弓公方足利義明が真理谷信隆の弟の信応を擁立。真里谷武田信隆は子の信政とともに真里谷城を出て北条氏綱と同盟を結び椎津城に籠城します。

1536(天文5)年、小弓公方足利義明の軍勢が真理谷武田信隆父子の籠城する椎津城に襲いかかります。真理谷武田信隆父子は椎津城を脱出し船によって、信隆は峰上城、信政は造海城へと落ち延びます。小田原からも北条の援軍が駆けつけますが、1537(天文6)年、小弓公方足利義明・里見義堯の連合軍に攻められて真理谷武田信隆父子は降伏。鎌倉に移って北条氏綱の庇護を受けるに至ります。

1538(天文7)年、小弓公方足利義明は第4代古河公方足利晴氏(1508-1560)から家督を奪うべく、古河公方の重要拠点である関宿城攻略に向けて進撃を開始します。まず、小弓公方足利義明の奉行人筆頭の逸見祥仙が国府台城に先鋒隊として布陣。続いて、相模台城に椎津・村上・堀江・鹿島氏ら諸将が入ります。

小弓公方足利義明の侵攻に対して、第4代古河公方足利晴氏は北条氏綱に小弓公方足利義明を追討せよという御内書を出します。敵の敵は味方ということなのでしょう。

第4代古河公方足利晴氏は本佐倉城の千葉昌胤(1459-1546)にも御内書を出しています。千葉氏の重臣の原胤隆・胤清父子は小弓城を奪われていたこともあり小弓公方は千葉氏にとっても脅威でした。

北条氏綱・氏康父子は第4代古河公方足利晴氏の求めに応じて、武・相・豆軍5000騎を従えて江戸城から出陣。国府台城と太日川(江戸川)を隔てて対峙する葛西城に入城。葛西城から北方に迂回して太日川(江戸川)を渡河し、国府台城相模台城の間にある松戸城に布陣します。

第一次国府台合戦と呼ばれる戦いの火蓋が切って落とされたのです。

小弓公方足利義明・基頼兄弟は北条軍渡河布陣の報せを受けると直ちに国府台城を出陣し相模台城の軍勢と共に松戸城を攻めます。この戦いで小弓公方軍の主力は里見義尭軍だったものの、里見氏はもともとは古河公方方であったことと、この戦いが古河公方と小弓公方との足利家同士の戦いという性格であったために積極的に参加しなかったとも言われています。

第一次国府台合戦では小弓公方足利義明、弟の基頼、子の義純ともに討死。小弓公方軍は総崩れになり、里見義尭はそのまま安房へと撤兵します。これを北条軍が中島北条陣地まで追撃。これによって、椎津城は北条軍の支配下に置かれ、従軍していたかつての椎津城主である真里谷武田信隆・信政父子は再び城主としての地位と真里谷武田氏の当主の座を取り戻します。

1551(天文20)年に真里谷武田信隆が死去し信政が家督を継ぐと、里見義堯は再び上総への侵攻を開始。翌年、土岐為頼、正木時茂を従えた里見義堯は武田信常の久保田城を落とし武田信常を討ち取ると、椎津城に進撃します。椎津城には真里谷武田軍の他に、間宮景頼率いる北条軍が籠城。しかし、攻勢激しく、真里谷武田軍は多くの将兵を討ち取られ、真里谷武田信政は嫡男信重、三男信光とともに自刃。椎津城は落城し再び里見氏の支配下に置かれます。城将として木曾左馬介が置かれました。

1564(永禄7)年、北条氏康の配下で江戸城の守将を務めていた太田康資が、同族の岩槻城主太田資正を通じて上杉謙信に寝返ろうとして失敗し、江戸城から岩槻城へと逃げます。これに対して、上杉謙信が太田康資・資正の救援を里見義弘に命じ、里見義弘は大軍を率いて千葉氏支配下の国府台城を奪い布陣します。北条氏康は千葉氏からの救援要請を受けて江戸城将の遠山綱景・富永直勝と玉縄城主北条綱成(1515-1587)に出陣を命じます。緒戦で遠山綱景・富永直勝が抜け駆けで矢切りの渡しから太日川(江戸川)を渡河するも里見軍の反撃に会い、遠山綱景・富永直勝、遠山綱景の娘婿の舎人城主舎人経忠が討死。

しかし、勝利に沸いていたのも束の間、万喜城城主の土岐為頼(-1583)が北条方に寝返り、北条軍の主力部隊が攻勢を掛け、里見氏重臣の正木信茂(1540-1564)が討死。里見義弘は重臣の安西実元が身代わりで討死したことで窮地を脱し、土気城主酒井胤治(1536-1577)によって救出されて安房に戻りました。

第一次国府台合戦の時と同様に、北条軍は敗走する里見義弘軍を追撃し、再び椎津城を取り戻し、白幡六郎を城将として置きました。

再び北条氏の支配するところとなった椎津城ですが、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐の際に、豊臣方の浅野長政によって攻められ落城しました。