相模台城

松戸の聖徳大学のある地にあるお城です。

千葉県は下総の地にあるのに、何故に、神奈川県の相模という名前が付いているのか。それは、ここに、1241(建長元)年に鎌倉幕府第6代執権北条長時(1230-1264)が館を営んだことに由来するとも。房総三国守護でもあった北条長時が相模守だったことから、その館の地が相模台と言われたという訳です。鎌倉幕府第14代執権北条高時(1304-1333)も1326(正中3)年に執権職を辞任後に相模台の地に館を構えたともされています。もとより伝説の域を出ません。

鎌倉時代は北条家の支配下でしたが、鎌倉幕府が滅びると、足利尊氏の配下の芳賀兵衛入道禅可が城将を務め、その後、1360(正平15)年に新田義貞(1300-1338)の一族の新田義徳が城を奪ったと伝わります。更に、足利軍が奪い返し、一旦は廃城となります。

1538(永禄7)年の第一次国府台合戦で、小弓公方足利義明が陣を構えて、江戸川を渡河して松戸城にあった北条氏綱・氏康父子の軍勢と対峙しました。数で優位な北条軍は松戸城から相模台城に殺到します。最初こそ小弓公方連合軍の反撃に勢いがありましたが、小弓公方足利義明の弟・基頼と子の義純が討死。指揮を執るべき小弓公方足利義明も北条軍への突撃を図って討死してしまいます。

里見義堯は相模台城を出ていた里見義堯は小弓公方足利義明の討死の報せを受けると直ちに戦線を離脱し安房へと退却を開始します。これによって小弓公方連合軍は崩壊し、北条軍の勝利が確定しました。

第一次国府台合戦以降は北条氏と同盟する千葉氏の配下にあった小金城の高城氏の支配下に置かれました。