玉縄城

鎌倉にある後北条氏ゆかりのお城です。

1512(永正9)年に北条早雲こと伊勢宗瑞によって築かれました。築城時、伊勢宗瑞は扇谷上杉氏出身の三浦義同(1451-1516)と東相模を巡って争っている最中。これに対して、三浦氏の主君である扇谷上杉朝興が三浦氏救援のために河越城から出撃してくることに備えるために玉縄城を築いたと言われています。

1516(永正13)年に三浦氏の本拠地である新井城が落城し三浦義同・義意父子が自害して三浦氏が滅亡すると、玉縄城は安房の里見氏の備えとしての役割を担いました。1526(大永6)年には、小弓公方の足利義明(-1538)に呼応した里見義豊(-1534)が鎌倉に侵攻し、玉縄城の北条軍が戸部川で迎撃しています。


玉縄城下にある玉縄首塚。里見義豊・実堯が鎌倉に攻め入った際の戸部川の戦いで北条氏時軍は甘糟氏ら35名が討死したと言われています。氏時は里見側と交渉し首を交換し、玉縄首塚に葬りました。

城主は、初代城主・北条氏時(-1531)の跡を北条氏第2代の北条氏綱(1487-1541)の子の北条為昌(1520-1542)、為昌の跡は今川氏家臣の福島正成の子で北条為昌の養子となっていた北条綱成(1515-1587)が城主を務め、以降、北条綱成の子の氏繁(1536-1578)、その子の氏舜(-1581)、氏舜の弟の氏勝(1559-1611)と繋ぎました。

1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐時に北条氏勝は山中城に籠城。山中城が落城すると、玉縄城に戻って籠城。玉縄城は徳川家康によって包囲され、玉縄北条氏の菩堤寺の龍寶寺住職らの説得によって開城して徳川家の支配下に入りました。

江戸幕府の支配下で玉縄城は本多正信、長沢松平氏が城主を務めたが、1703(元禄16)年に長沢松平氏が上総大多喜藩に転封となると廃城となりました。