足利政氏館

埼玉は久喜にあるお城です。

第2代古河公方の足利政氏(1462-1531)が館を構えた場所です。足利政氏は引退した後の、1519(永正16)年に、永安山甘棠院という円覚寺派の寺院を館に建てて現在に至っています。

足利政氏は1489(延徳元)年に父親で初代古河公方の足利成氏から公方職を承継し第2代古河公方に就任します。

1505(永正2)年に山内上杉顕定(1454-1510)と扇谷上杉定正(1443/1446-1494)との間の長享の乱が終結すると、長享の乱で上杉定正の死後に山内上杉方に転じていた足利政氏は弟の顕実(-1515)を関東管領・山内上杉顕定の養子に入れます。

1507(永正4)年に、関東管領山内上杉顕定の弟で越後守護の上杉房能(1474-1507)が、上条上杉定実(1478-1550)を擁立する守護代の長尾為景(1489-1543)によって襲撃され自刃。この報復のために、関東管領・山内上杉顕定が越後に侵攻するものの、越後国人衆の支持を得られませんでした。そこに、1510(永正7)年に長尾為景軍が山内上杉軍を攻撃。長尾為景と縁戚関係にある信濃中野小館の高梨政盛(1456-1513)も援軍として加わり、越後長森原で激突。山内上杉軍は敗れ、山内上杉顕定は自刃します。

足利政氏は古河公方と関東管領による関東支配を目指していましたが、子の足利高基は古河公方のみによる関東支配を目指していました。そこで、山内上杉顕定の後の関東管領を巡って古河公方家の父子対立が生じます。

足利政氏の弟の山内上杉顕実が関東管領となることに、同じく養子の上杉憲房が反発。山内上杉顕実は実兄の古河公方足利政氏に助勢を頼み、一方で、上杉憲房は横瀬景繁(-1520/22)、足利長尾景長(1469-1528)に擁立され、さらに、足利政氏の子の高基を味方に付けて争うことになります。

結局、関東管領山内上杉顕実は鉢形城を落とされ古河に逃れます。

加えて、この山内上杉家内部と古河公方内部の争いの最中に、足利政氏の次男で鶴岡八幡宮若宮別当だった足利義明(-1538)が還俗。上総国真里谷城主の真里谷信清に擁立され千葉氏方の下総国小弓城を落城させ小弓公方として独立してしまいます。

1516(永正13)円には、古河公方足利政氏方の佐竹義舜を足利高基方の宇都宮成綱が下野国上那須庄浄法寺縄釣で破ります(縄釣の戦い)。宇都宮軍は敗走する佐竹義舜・岩城由隆連合軍を追撃。下野国武茂庄でも佐竹・岩城連合軍を破り、さらに追撃し常陸国依上保でも佐竹・岩城連合軍を破って壊滅的打撃を加えます。宇都宮軍は更に追撃し常陸国月居でも戦い、ここで宇都宮軍は撤退します。この戦いによって、足利高基は実質的に父親から家督を奪い取った形になります。

そして、遂に、1519(永正15)年に足利高基は父親の古河公方足利政氏を引退させ古河公方となりました。

その隠居の地が永安山甘棠院になります。


足利政氏の墓