滝の城

埼玉は所沢にあるお城。

公園となっているのでとても訪れやすいお城ではありますが、東川と柳瀬川の合流点に築城され急崖も持つ多郭式の本格的な平山城です。

古墳時代後期の7世紀頃の横穴式墓群が本丸付近で1976年に発見されています。つまり、1180(治承4)年に源頼朝が挙兵した時に土豪によって築城されたとの伝承を持つこの城の起源は古いと言えます。

本格的な城を築いたのは関東管領山内上杉家の家宰で武蔵国入間郡・多摩郡を所領としていた大石氏で15世紀後半のことだとされています。

大石氏は関東管領上杉家の四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)と言われる家柄ですが、もともとは信濃国佐久郡大石郷を出身としています。

木曾家教の三男の信重が大石為重の養子となって関東管領・山内上杉憲顕(1306-1368)に仕えています。1351(観応2)年に新田義貞の子義宗が上野国で挙兵した際に足利方の山内上杉軍の先鋒として戦った戦功から、1356(延文元)年に入間・多摩両郡内に十三郷を与えられて武蔵国目代職となっています。

また、大石能重が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲(1333-1378)に仕えて武蔵守護代となっています。

上杉憲顕は山内上杉家の祖であり、上杉能憲は上杉憲顕の子に当たります。

1358(延文3)年に室町幕府初代将軍・足利尊氏が死去。これを契機に足利尊氏の子で初代鎌倉公方・足利基氏は、それまで鎌倉府を支えてきた畠山国清や武蔵平一揆(河越氏、高坂氏、江戸氏、高山氏、古屋谷氏、新田氏、村山党)と距離を置き始めます。畠山国清を追討した足利基氏が代わりに据えたのが、観応の擾乱で足利直義方に与して信濃に追放されていた上杉能憲で、上杉能憲は1363(貞治2)年以降、河越直重を相模国守護から解任、続いて、高坂氏をも伊豆国守護職から解任します。大石氏は上杉能憲が信濃にあった時に家臣として組み入れられたと考えられます。

1367(貞治6)年、初代鎌倉公方・足利基氏と第2代室町幕府将軍・足利義詮が死去。関東では第2代鎌倉公方として足利基氏の子の氏満が就任しますが幼少であったために関東管領上杉能憲が後見する形となります。

関東管領上杉能憲に勢力を削がれつつも鎌倉府の先兵として駆使され続けていた平一揆側は、1368(応安元)年、関東管領上杉能憲が上洛すると、河越直重を中心として河越館と江戸牛島で挙兵します。

しかし、この挙兵は山内上杉能憲とともに関東管領を務めた犬懸上杉朝房(1335-1391)の両管領が第2代鎌倉公方・足利氏満を擁して河越館を攻め勝利します。

この武蔵平一揆の乱の平定によって、河越氏が有していた権限は山内上杉氏の手に落ち、大石氏が守護代として台頭してくる契機になったと考えられます。

この頃の大石氏の本拠地は二宮城でしたが、1458(長禄2)年、大石信重の玄孫・大石顕重が高月城を築城し本拠地を移しています。

さらに、1521(大永元)年、大石定重が高月城の北東に滝山城を築城して本拠地を移します。滝の城は滝山城の支城としての機能を担ったと考えられています。

1546(天文15)年、河越夜戦で関東管領上杉憲政(1523-1579)、扇谷上杉朝定(1525-1546)、第4代古河公方足利晴氏(1508-1560)の連合軍が後北条氏第3代北条氏康(1515-1571)に敗れ、扇谷上杉朝定は討死し扇谷上杉家は事実上滅亡、関東管領上杉憲政も領国の上野国を維持出来なくなり越後に逃れます。

この状況下、滝山城主・大石定久(1491-1549)は北条氏康の三男・北条氏照(1540-1590)を娘・比佐の婿養子として迎え、滝山城主と武蔵守護代の地位を譲ることで大石家の存続を図りました。

これによって、滝の城は北条氏照に引き継がれ、柳瀬川対岸に番所を設けて三田氏を置き、河越城岩槻城鉢形城へのつなぎの城としての役割を果たすようになります。1564(永禄7)年から1577(天正5)年に掛けての下野国侵攻、特に、1575(天正3)年に上杉氏と北条氏との間で従属と離反を繰り返していた小山秀綱(1529-1603)を討伐し、祗園城を支配下に置いたときの戦いの陣揃えの地となったと言われています。

前線基地を担っていた滝の城も、1590(天正18)年に豊臣秀吉方の浅野長政軍の攻撃を受けて落城しました。