岡城

埼玉は朝霞にあるお城。朝霞駅から2キロほどの距離と近く、城山公園として整備されているので訪問しやすいです。とはいえ、訪城したのはちょうどお盆の時期。暑い事この上ない中での2キロとなりました。

朝霞駅の周辺も小高くなっていますが、岡城の建つ地も黒目川に隣接した比高15メートルほどの小高い丘。

城は3郭からなっていて、公園の入り口は3郭に当たっていて、2郭、1郭と遊歩道が続いています。

ここは江戸時代に浜崎村名主・須田家が城地を所有していたことから浜崎陣屋、峡の陣屋と呼ばれる陣屋が置かれていたとも考えられていて、この陣屋を引き継ぐ形で明治には内間木村役場が置かれたとされています。

しかし、それ以前のお城の歴史については詳しいことは明らかにはなっていません。『東円寺寺伝』によると、長禄・文明年間(1457-1487)年間に太田道灌が築城したとも言われています。また、後北条氏第3代・北条氏康(1515-1571)に属した太田康資(1531-1581)が城主を務めたとも伝えられます((『新編武蔵国風土記稿』)。

太田康資の父・太田資高(1498-1547)は祖父・太田道灌が主君の扇谷上杉定正(1443-1494)に謀殺されたことを遺恨として、扇谷上杉家の敵である後北条氏第2代北条氏綱(1487-1541)に通じて江戸城を明け渡した人物。太田資高の父・太田資康は父親の太田道灌が扇谷上杉朝興に謀殺された時は江戸城にあって難を逃れたものの、扇谷上杉軍によって江戸城を攻められ、同じく扇谷上杉定正のもとを離れた定正の実兄・三浦高救とともに山内上杉顕定のもとに奔っています。

後に、扇谷上杉定正が事故死すると、太田資康も三浦高救も扇谷上杉家への帰参が許されます。この太田資康も扇谷上杉朝良(1473-1518)によって暗殺されたと言われています。つまり、太田家は2人も主君の扇谷上杉家によって暗殺されていることになります。太田資高が後北条氏に寝返ったのも当然といえば当然かもしれません。

岡城の城主と伝えられている太田康資は江戸城の城主になれなかったことなどの不満から北条氏康を1562(永禄5)年に叛旗を翻したものの失敗し、同族の岩槻城主・太田資正(1522-1591)を頼って落ち延びています。