岩槻城

埼玉の人形の町岩槻にあるお城です。

岩槻城へは二度目。

岩槻城を築いたのは太田道灌とも、太田道灌の父の太田道真とも言われていた。1457(長禄元)年、扇谷上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗するために江戸城、河越城とともに築城を命じたとされてきた。

しかし、忍城主の成田顕康の父の成田正等が築城したともされている。成田正等は「成田氏系図」記載の成田資員であるとも言われる。1509(永正7)年に古河公方奉公衆の渋江氏が城主となっていることや成田正等は享徳の乱以降古河公方方であったことから、いづれにしても、この岩槻城が扇谷上杉氏と古河公方との戦いの最前線であったということには違いないだろう。

白井長尾家の長尾景春が叔父である総社長尾家の長尾忠景を山内上杉顕定が家宰に据えたことに不満を抱き1475(文明7)年に鉢形城で謀反。成田正等も豊島泰経、豊島泰明、千葉孝胤、那須明資とともに長尾景春の陣営に与した。これに対して、扇谷上杉家の家宰である太田道灌が山内上杉家救援と扇谷上杉家の勢力拡張のために武蔵国に侵攻。長尾景春は古河公方足利成氏と結んでいた。しかし、太田道灌は1478(文明10)年に、この足利成氏と両上杉氏との間に和議を成立させる。続いて、太田道灌は鉢形城を落城させ長尾景春は武蔵国を落ち延びた。

成田正等の忍城も上杉軍の猛攻に晒され、1479(文明11)年に降伏。太田道灌の仲介によって、山内上杉家の家宰であった総社長尾家の長尾忠景の子・顕泰を成田家の養子に迎えた。長尾顕泰は太田道真の養子であったことでも知られている。

1522(大永2)年に扇谷上杉方の太田資頼が北条氏綱に寝返り、城主の渋江右衛門大夫を討ち取り岩槻城を奪取。扇谷上杉朝興は甲斐武田氏に支援を要請し岩槻城を奪還。太田資頼は、結局、扇谷上杉方に復帰。これに対して、北条氏綱は旧城主の一族で太田氏に仕えていた渋江三郎を内通させて岩槻城を奪取。太田資頼は石戸城に退いた。

1531(享禄4)年に太田資頼は岩槻城を攻め渋江三郎を討ち取り岩槻城を再び手中に入れた。

太田資頼から家督を継いだ資時は扇谷上杉朝定の家臣でありながら北条氏康との関係を深めた。1546(天文15)年の河越城攻略では上杉朝定の参軍要請に従わず河越夜戦で上杉朝定が討死すると北条氏康の家臣となった。一方、資時の弟の資正は扇谷朝定に従って河越で激闘を繰り広げた。資正の正室の父である難波田憲重は河越で討死している。


岩槻城城門

1547年、太田資時が28歳で病死。弟の資正が太田家の家督を承継し岩槻城主となる。既に扇谷上杉家は当主が河越で討死したために没落。関東管領山内上杉家の上杉憲政も北条氏康の攻勢の前に平井城を放棄し越後に上杉謙信を頼っていた。そのため、太田資正は直ちには北条氏康に叛旗を翻すことなく子の氏資に北条氏康の娘・長林院を迎え北条氏の常陸国侵攻に加担。同族で北条方江戸衆の太田康資とともに小田城を攻めている。

しかし、次第に反北条色を強めていき、上杉謙信が関東に侵攻すると上杉方に寝返り、次男の梶原政景とともに江戸城攻略をなしている。梶原政景は梶原上野介未亡人の養子となって梶原家の家督を承継した人物であり、岩槻城の行く末に影響を与える人物である。

1562年、北条氏康の家臣で江戸城にあった同族の太田康資が氏康への不満から上杉謙信への寝返りを決断。これを江戸城の富永直勝、遠山綱景が事前に察知。太田康資は岩槻城の資正のもとに逃亡。

上杉謙信から太田資正、康資の救援を依頼された里見義弘が1564(永禄7)年に国府台城に入城。第2次国府台合戦が勃発する。北条軍は江戸城を出て矢切の渡しから、太田康資の同僚であった江戸城将の遠山綱景、富永直勝が北条綱成の本隊に先駆けて国府台城に突撃し相次いで討死。大勝した里見軍が戦勝の酒宴を張っている最中に北条軍は江戸川を渡河し国府台城に殺到。里見軍主力の土岐為頼が北条軍に内応し戦線を離脱。里見軍の筆頭家老正木信茂、安西実元が討死。里見義弘は安西実元の身代わりと土気城主酒井胤治による支援によって国府台城を辛うじて脱出し上総に逃げ延びた。


岩槻城裏門

太田資正も上総に逃げるが酒井胤治の尽力によって岩槻城に帰還。再び里見氏からの支援を仰ぐべく岩槻城を出た時に新北条派であった息子の氏資が父に家督承継者と目されていた弟の梶原政景を幽閉。父を追放して北条氏康の軍門に下った。

1565(永禄8)年に氏資が古河公方家の家臣である簗田晴助を攻めている時に太田資正が岩槻城に攻めよせたが撃退。1567(永禄10)年に北条氏政が里見義弘に留めを刺すべく里見氏重臣の正木時忠、土岐為頼を帰順させた上で里見義弘の居城である佐貫城の近くの三舟山の山麓に砦を築いた。里見義弘は佐貫城防衛のために三舟台砦に猛攻を仕掛ける。

これに対して北条氏政は太田氏資を引き連れて江戸湾を渡って房総半島に上陸。北条氏政の弟の氏照は原胤貞を率いて里見義弘の父の義堯の居城である久留里城を攻めた。決戦の地は三舟台砦となり、里見義弘は正木憲時とともに水陸両方から北条軍を攻め立てた。ここに北条軍は崩れ、この三舟山合戦で北条軍の太田氏資は殿軍を勤め討死。

太田氏資には子が無かったために、北条氏政の三男である北条国増丸が太田氏資本の娘を妻として太田氏を承継した。北条国増丸が早世すると弟の北条氏房がその未亡人と婚姻し太田氏を承継した。

太田氏房は1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐の際には小田原城に籠城。家臣が守った岩槻城は小田原城開城に先だって5月20日に陥落。小田原城開城後は太田氏房は兄の北条氏直とともに高野山に蟄居となった。


時の鐘