裸婦と犬

ギュスターヴ・クールベ[Gustave Courbet,1819/06/10-1877/12/31]による1868年の作品.

ギュスターヴ・クールベは,1819年,旧ブルゴーニュ伯領[Comté de Bourgogne]に相当するフランシュ・コンテ[Franche-Comté]のオルナン[Ornans]生まれ.オルナンはフランス北東部の都市ブザンソン[Besançon]から南東へ約25kmの場所にあり塩の道「ルート・デュ・セル[Route du sel]」にあって栄えた土地として知られる.

代表作であり横幅7メートルの大作『オルナンの埋葬』は等身大の無名の村人を描いた作品.これを英雄などを描くジャンルであった歴史画として発表.さらに,パリ万博に出展しようとする.この企みは激しい批判を受け,パリ万博でも落選.このことが『レアリスム宣言』へと繋がり,写実派の誕生へと繋がった.

1870年,普仏戦争のセダンの戦い[Battle of Sedan]でフランス皇帝ナポレオン3世がプロイセン王国軍の捕虜となる事態が発生.71年にはプロイセン王国軍がヴェルサイユに進軍しドイツ皇帝戴冠式を挙行.フランス臨時政府行政長官のティエール[Thiers,Louis Adolphe;1797-1877]は50億フランの賠償金支払いとアルザス・ロレーヌ[Alsace-Lorraine]地方の割譲によって講和を結びます.

この講和によってプロイセン王国軍がパリに入城するとパリ市民が蜂起.ティエールはパリからヴェルサイユに逃亡し,パリは革命派が掌握.3月にはコミューン議会選挙が実施され自治政府パリ・コミューンが誕生.クールベはこのパリ・コミューンに美術委員会議長として参加.

ところが,ヴェルサイユに亡命していたティエールはプロイセン王国軍の支援を受けて5月21日にパリに再入城.ペール=ラシェーズ墓地の戦い[Battle of Père-Lachaise Cemetery]でパリ・コミューン軍を撃破.パリはティエール政権によって制圧.ティエール政権は,血の一週間[The Bloody Week]と呼ばれるパリ・コミューン派の逮捕・弾圧を実施.血の一週間はフランス近代史上もっとも流血を伴った内戦の一つとされ,15,000-20,000人以上のパリ市民・コミューン派が処刑・虐殺されたと言われている.

この弾圧を経て,ティエールは第3共和政の初代大統領[任1871-73]となる.

この血の一週間で,クールベも逮捕された.1872年3月には釈放されるが,彼がヴァンドーム広場のナポレオン記念円柱を破壊したとして,政府から賠償を命じられ破産.1873年にはスイスへと亡命し,スイスで生涯を閉じた.

クールベが亡命した1873年には,王党派や極左共和派からの反発によって国民議会でティエール大統領が解任され,王党派のパトリス・ド・マクマオン伯爵[Patrice de Mac-Mahon,1808/07/13-1893/10/16]が大統領に就任した年でもある.


'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"

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