

狩野派の代表的な画人である狩野永徳[天文12.01.13〔1543.02.16〕 - 天正18.09.14〔1590.10.12〕]の作品。
上杉本洛中洛外図屏風は、左右の隻で異なる方向から京都を眺めている。つまり、一隻(右隻)は鴨川・東山方面を西側から俯瞰し、もう一隻(左隻)は北山・西山方面を東側から眺望している。右隻(下京を描く側)で、西側から東方を眺める構図において、単純に地図を回転させたのではなく、二隻を並べたときに京都盆地全体を一望しているような印象を与えることを優先。そのため、鴨川や東山の稜線、主要街路などは自然につながるように配置され、厳密な方位関係は部分的に犠牲になっている。従って、右隻だけを見ると、上が南、下が北のように感じられる箇所が存在する。これは画面全体が90度回転しているという意味ではなく、三次元空間を一枚の平面に展開するためのパノラマ的・鳥瞰図的な歪みによるもの。
京都の花の御所(室町幕府の足利将軍邸跡・現在の京都市上京区)の周辺が描かれている。中央に大きく描かれた、幾重にも連なる立派な瓦屋根と赤い漆塗りの柱を持つ建物が、室町幕府の将軍の邸宅である花の御所。
画面上の上方に描かれているのは鴨川に架かる五条大橋。実際の京都では、花の御所は現在の上京区(今出川付近)、五条大橋はそこからかなり南に位置するため、現実の地理とは逆転している。
花の御所は、室町幕府の将軍邸であり、正式には室町殿(むろまちどの)と呼ばれる。現在の京都市上京区、烏丸通と今出川通付近に位置し、約240年にわたって室町幕府の政治・文化の中心として機能した。花の御所という通称は、広大な庭園に四季折々の花木が植えられ、美しい景観を誇ったことに由来。
その起源は1378(永和4)年にさかのぼる。室町幕府第3代将軍・足利義満は、それまで二条室町にあった将軍邸を移し、室町通に面する壮大な新邸を築いた。義満はここを政治の拠点とするだけでなく、明との勘合貿易を推進し、守護大名を統制しながら幕府の権力を最盛期へと導いた。また、北山文化を開花させた義満の文化政策も、この花の御所を中心に展開された。
建物は寝殿造を基調としながら武家住宅の要素を取り入れた壮大な構成で、広大な庭園や池泉、会所、能舞台などを備えていた。将軍の居館であると同時に政務の場、儀礼の場、外交の場でもあり、多数の公家や僧侶、外国使節が訪れた。当時の京都において最も権威ある建築群の一つであった。
義満の没後も歴代将軍の居館として使用され、足利義持、義教、義政らがここで政務を執った。特に第8代将軍足利義政の時代には、東山文化が花開き、将軍邸では連歌、茶の湯、能楽、水墨画などが盛んに催された。しかし応仁元(1467)年、応仁の乱が勃発すると、東軍総大将であった細川勝元が本陣としたため、西軍の激しい攻撃を受けて焼失した。花の御所は戦乱の象徴ともいうべき最初期の大規模被害を受け、その後も京都市街の戦火の中で再建されることはなかった。
応仁の乱後、室町幕府は一時的に近隣へ将軍邸を移したものの、かつての壮麗な花の御所は復活しなかった。幕府の権威も急速に衰退し、戦国時代には将軍は十分な政治的実権を失っていく。そして1573年、織田信長が第15代将軍足利義昭を京都から追放したことにより、室町幕府は滅亡した。
狩野永徳が1570年代に制作した上杉本洛中洛外図屏風に描かれた花の御所は、実際には既に焼失から約100年が経過した後の姿である。このため、永徳が描いた建物は現実の景観というよりも、京都の歴史的象徴として再構成されたものであると考えられている。花の御所は室町幕府の権威を象徴する建築として、京都を代表する名所の一つとして屏風の中に組み込まれたのである。
参照:
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"
