

バロック期のロレーヌ地方出身の版画家ジャック・カロ[Jacques Callot,1592年-1635年3月24日]の連作である『ロレーヌの貴族』シリーズの一つ.ジャック・カロはロレーヌ公国[Duchy of Lorraine]の首都ナンシーで生まれ,フィレンツェにおいてコジモ2世・デ・メディチ[Cosimo II de' Medici,1590年5月12日-1621年2月28日]の庇護を受けた.コジモ2世の死後,ロレーヌ公国に戻りアンリ2世[Henri II;在位1608–1624]に仕えた.
ジャック・カロの連作『ロレーヌの貴族』は, 1620年から1623年頃に制作された12枚組のエッチング作品であり, 6人の紳士と6人の貴婦人を描いている.その中でも,広襟の貴婦人[大きな襟と後ろに垂れる頭飾りをつけた貴婦人]として知られる図版は, 17世紀初頭のロレーヌ公国における洗練された美意識と, カロの卓越した版画技法が見事に融合した一枚である.
この作品の主役である貴婦人は, 当時の流行の最先端であった扇状に大きく広がる繊細なレースの襟を纏っている.この種の立襟は16世紀後半から17世紀初頭にかけてヨーロッパの宮廷で流行したもので, フランスではカトリーヌ・ド・メディシス[Catherine de Médicis;1519-04-13 – 1589-01-05]にちなんでメディチ襟[Medici collar]とも呼ばれた.カロはこの極めて薄く複雑なレースの網目模様を, まるで針の先で編み上げるかのような極細のエッチング線で再現しており, その透明感と軽やかさは, 版画という硬質な媒体であることを忘れさせるほどの質感を持っている.
貴婦人の立ち姿は優雅な曲線を描いており, わずかに顔を傾けて鑑賞者を見つめる視線には, 宮廷人としての自信と控えめな誇りが同居している.彼女が身につけているドレスの重厚な生地の重なりや, 腰回りのボリューム感, そして細かな装飾に至るまで, カロの観察眼は妥協を許さない.後ろに垂れる頭飾りの柔らかな描写は, 周囲の張り詰めたレースの質感と対比され, 視覚的な豊かさを生み出している.
背景に目を向けると, 中央の大きな人物像とは対照的に, 極めて小さく描かれた人々が庭園のような場所で社交に興じている姿が見て取れる.この極端な遠近法の対比によって, 手前の貴婦人の存在感が強調されるとともに, ロレーヌ公国の宮廷という閉ざされた, しかし限りなく優雅な世界の奥行きが表現されている.背景の風景様式はトスカーナ風とされ, カロがフィレンツェで過ごした時期の影響を示唆している.
興味深いことに, この連作が描いているのが真の貴族階級なのか, あるいは彼らを模倣した新興のブルジョワ階級なのかについては, 研究者の間でも見解が分かれている.実際, この時期のロレーヌ公国では, 富裕な市民階級が貴族の生活様式や服装を積極的に取り入れており, カロの作品はそうした社会的上昇を目指す階層の姿を理想化して表現した可能性がある.また, モデルとしてカロ自身の家族が使われたという説もあり, 連作に登場する女性の何人かはカロが1623年に結婚した妻カトリーヌ・クティンガー[Catherine Kuttinger]ではないかとも言われている.
この広襟の貴婦人は, 単なるファッション・プレートとしての価値を超え, 17世紀という時代が求めた気品ある女性像を版画という小宇宙の中に永遠に封じ込めた, カロの代表作の一つである.約142×91ミリメートルという小さな画面の中に, カロは驚くべき精緻さと優雅さを凝縮させ, ロレーヌの宮廷文化の栄華を後世に伝えている.
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"
