聖母子像

北方ルネサンスのヤン・ホッサールト[ Jan Gossaert;c.1478/1532-10-01]の作品.ヤン・ホッサールトは現在のオランダ南部にある町,マースブレイ[Maasbree]の出身であり,そのフランス語読みまたはラテン語読みであるマブーセ[Mabuse]という通称で呼ばれた.

本作は北方ルネサンスを代表する画家ヤン・ホッサールト[マブーセ]による聖母子像であり, 静謐な宗教的親密さと古典的造形意識とが結びついた作品である.画面中央には聖母マリアが半身像として据えられ, 幼子イエスを穏やかに抱いている.聖母の身体は正面性を保ちながらもわずかにひねりが加えられ, 硬直を避けた安定感ある構成となっている.

聖母は深い赤色[深紅]のマントをまとい, その下に暗色の衣を着ている.この配色は伝統的なマリア図像における青と赤の組み合わせを逆転させたものであり, 衣文は重厚で彫塑的に処理され, 明確な陰影によって量感が強調されている点に, ホッサールトがイタリア滞在を通じて獲得した古典的立体感覚が認められる.特に赤いマントの襞は複雑に折り重なり, 布地の質感と重量感を見事に表現している.

幼子イエスは母の腕の中で自然な身振りを見せ, 単なる象徴的存在ではなく, 生身の幼児として描かれている.丸みを帯びた四肢や柔らかな肌の表現は写実的であり, 北方絵画特有の細密さがよく表れている.同時に, 身体の比例や姿勢には古代彫刻を思わせる均衡があり, 北方的写実とイタリア的理想化との折衷が見て取れる.幼子は右手を挙げて祝福の仕草を示しており, 左手には何らかの対象[おそらく聖母の衣の一部]に触れている.この身振りは神学的意味と人間的親密さを併せ持つ.

聖母の表情は沈静で内省的であり, 鑑賞者と直接視線を交わすことなく, やや下方へと向けられている.この視線の構図は, 瞑想的な雰囲気を強調し, 観る者を静かな黙想へと導く.背景は暗色のニュートラルな空間として簡潔に抑えられ, 余分な物語性や装飾を排することで, 人物像そのものの存在感が際立たされている.

本作における光の扱いは柔らかく, 急激なコントラストを避けながらも, 顔や手, 特に聖母の額や頬, 幼子の身体に的確に当てられている.その結果, 聖母子は闇の中から静かに浮かび上がるように描かれ, 神秘性と現実性とが同時に成立している.これは祈念用絵画としての機能を強く意識した表現である.また, 聖母の頭部には薄く金色の光輪が認められ, 神聖性の表象として機能している.

ホッサールトは1508-09年にイタリアを訪れ, ローマで古代遺物やラファエロらの作品に触れた.本作にはその経験が明瞭に反映されており, 初期ネーデルラント絵画の精緻な観察力を基盤としつつ, イタリア・ルネサンス由来の人体理解と構成意識を導入した点において, ヤン・ホッサールトの画業を端的に示す作品である.北方ルネサンスが単なる地域的様式にとどまらず, 汎ヨーロッパ的な美術潮流の一環として展開していく過程を, この作品は静かに物語っている.16世紀前半のネーデルラント美術における「ロマニスム[イタリア趣味]」の重要な実例として, 本作は美術史的に位置づけられる.


'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"

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