

フランス新古典主義の巨匠であるアングル[Jean-Auguste-Dominique Ingres;1780-08-29/1867-01-14]の1856年の作品.この絵のモデルとなったのはフランスの裕福な銀行家であるポール=シガルト・モワテシエ[Paul-Sigisbert Moitessier]の妻のマリー=クロチルド=イネス・ドゥ・フコクール[Marie-Clotilde-Inès de Foucauld].
座るイネス・モワテシエ夫人は, アングルが晩年に描いた代表作の一つであり, 彼の肖像表現が到達した極端な形式的完成度を示す作品である.1856年に完成したこの絵画は, 1842年に制作が開始されながら中断と再開を繰り返し, 実に14年の歳月を要した.モデルは肘掛椅子に腰掛け, 身体をほぼ正面に向け, 厳密に安定した姿勢を保っている.胴体には動勢やひねりはほとんどなく, 像全体は垂直軸に沿って静止している.
右腕は肘掛に預けられ, 右手は指を軽く曲げて頬に添えられている.この仕草は感情的な身振りというよりも, 構図上の必然として導入されたものであり, 顔と手とを幾何学的に連結する役割を果たしている.この右手の指の描写には, アングルの解剖学的知識と理想化の両面が現れており, 指の関節が通常よりも多く見えるような表現は, しばしば批評の対象となった.これは写実の逸脱ではなく, 曲線の連続性と優美さを追求した結果である.左腕は身体の前で折り曲げられ, 左手には扇が保持されている.扇は膝の上に置かれているのではなく, 身体の前面で垂直性を補強するように配置され, 画面下部の構造を安定させている.
モデルの豊かな体つきと豪華な衣装が精緻に描かれている.衣装は極めて装飾的であり, 特に中国風の刺繍が施された絹のドレスは, 当時のオリエンタリズムの流行を反映している.布地には細密な文様と複雑な質感が与えられている.上半身には光沢を帯びた織物が重ねられ, 首元にはネックレスが配されているが, 人物の輪郭線を乱すことなく, 厳密に制御された秩序の中に組み込まれている.色彩は豊かでありながらも奔放ではなく, すべてが線と形態の支配下に置かれている.ドレスの模様は花卉文様を中心とし, 金糸による刺繍の質感まで丹念に再現されている.
顔貌は極度に平滑で, 皮膚の表情は時間性や偶然性を排除したかのように処理されている.これは写実の不足ではなく, アングルが追求した理想的形態の結果である.輪郭線は鋭利かつ明確であり, 量感や存在感は筆触ではなく, 線の精度によって成立している.夫人の肌は磁器のような滑らかさで描かれ, 個性よりも普遍的な美の典型が優先されている.
背景には円形の鏡が据えられ, 夫人の後頭部と肩の一部が映り込んでいる.この鏡像は装飾的効果にとどまらず, 正面像と背面像を同一画面に共存させるための構造的要素である.鏡に映る背中や右腕の描写には, アングルの卓越した技術と, 非現実的なまでの理想化された美意識が凝縮されている.背中の曲線は実際の人体の解剖学を超越し, 優美さのために引き伸ばされ, 滑らかにされている.これにより, 人物は単一視点の肖像を超え, 閉じた完全形として提示されている.この鏡の使用は, ファン・エイクのアルノルフィーニ夫妻像やベラスケスのラス・メニーナスといった先例を踏まえつつ, アングル独自の形式的探求として機能している.
本作においてアングルは, 感情表現や瞬間性を徹底して排除し, 線, 比例, 静止という古典的原理を肖像画の極限まで押し進めている.その結果, 座るイネス・モワテシエ夫人は, 個人の肖像でありながら, 人格描写よりも形式そのものが前景化した, 冷徹なまでに完成された像として成立している.この作品は, アングルが76歳の時に完成させたものであり, 彼の芸術理念の集大成として, また19世紀フランス絵画における新古典主義の到達点として, 美術史上重要な位置を占めている.
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"
