プリンスの森から

チェチェン問題

9月1日、北オセチア共和国ベスランで起きた学校占拠事件は300人を越すと見られる犠牲者を出す未曾有の惨劇となった。
北オセチア共和国はロシア連邦に属している。しかし、国境を接する隣りのグルジア共和国には同じオセット人主体の南オセチア自治州があり、両オセットを統合しようという動きがオセチア紛争を産んだ地でもある。
この北オセチア共和国(正式名称は北オセチア・アラニヤ共和国)は1936年に自治州から自治共和国に昇格。
ここからが複雑になる。
隣接するチェチェン地方に住むチェチェン人はロシア帝国のカフカス侵攻に対してイスラムの旗を掲げて長い間カフカス戦争を闘った民族。ロシア帝国に敗れて支配下に置かれるものの、ロシア革命が起こると1921年にはソビエト山岳自治共和国を樹立して独立を果たす。しかし、1936年にはソビエト連邦に併合され、チェチェン・イングーシ自治共和国(the Che-chen-Ingush Autonomous Republic)となる。
この間も絶えず独立問題が燻っていた。そういう状況下で、1942年にナチス・ドイツがバクー油田への橋頭堡としてチェチェン地方を占領。1943年のドイツ軍撤退の翌年には、ドイツ占領時にドイツ軍に協力したという理由によってスターリンによってチェチェン、イングーシ両民族は強制移住させられる。只でさえ、ロシアに対して独立感情を持っているチェチェン人がこうした扱いを受け故郷を追われたことは禍根を残すことになる。
このチェチェン人がいなくなった後のチェチェン地方を併合したのが北オセチア自治共和国。北オセチア自治共和国はチェチェン、イングーシ両民族が戻ってくる1957年まで両地方は北オセチアに含まれることになったわけだが、この時代に北オセチアは首都を地域の中心部であり、かつてのチェチェン・イングーシ自治共和国の首都であるウラジカフカスに定める。ウラジカフカスはチェチェン、イングーシ両民族が戻って来た後も北オセチアの領土とされた。こうした状態は1992年6月にイングーシ共和国がチェチェンから分離した時点で解消されウラジカフカスはイングーシ共和国に戻る。このイングーシ共和国の分離は前年のドゥダーエフ大統領(Dudayev,Jokhar[1944?1996])によるチェチェン・イングーシ共和国独立宣言、ソビエト連邦解体の流れの中で起きている。
イングーシを分離したチェチェンでは独立派と反独立派との間で内戦状態に。ここに、ロシアの軍事介入による第1次ロシア=チェチェン戦争(1994-1996)が勃発。エリツィン政権による大規模攻撃によって首都グロズヌイが陥落、続いてドゥダーエフ大統領も戦死。独立派の劣勢の中で、5年間の独立凍結が独立派とロシアとの間でハサビュルト合意が合意され戦闘は終結する。
合意の後も独立は凍結しているだけだったが、小規模な戦闘行為が繰り返される。
小康状態は1999年にチェチェンのイスラム原理主義勢力がロシア連邦ダゲスタン共和国解放を唱えてロシア軍と交戦。ダゲスタン地方はチェチェン地方と同時にロシア帝国に組み入れられた歴史を持つ(1859)。
ダゲスタンとモスクワで相次いで合わせて約300人が犠牲になった大規模テロ5件が発生したことを受けて、ロシア政府は1999年9月29日に再びチェチェン共和国へ侵攻。ここに、第2次チェチェン戦争が始まる。なお、ロシア軍の侵攻とは言ってもチェチェンは未だロシア連邦内の(自治)共和国であることには注意が必要。
この戦いは2000年に、チェチェン武装勢力が首都グロズヌイから撤退し終結。チェチェン武装勢力はチェチェン以外に活動の場を移した。

[参考文献]
チェチェン やめられない戦争』アンナ・ポリトコフスカヤ (著), 三浦 みどり (翻訳)