プリンスの森から

ネットワークの類型

○バラバシ型:ハブの存在によって特徴付けられるネットワーク。貴族主義的モデルとも。

○ワッツ型:規則的ネットワークにランダムネットワーク的なバイパスを加えたネットワーク。平等主義的モデルとも。

○バラバシ型が成長するとワッツ型に移行するとも考えられている。

※mail2bloggerで日本語が復活したようなのでテスト。

火に油

大統領選挙の終わった米国では敗れたケリー氏は上院議員としての活動を、上院議員の辞していたエドワード氏も民主党の要職として4年後を睨んだ活動を始めるということが伝えられている。
そのケリー氏の敗北の弁がウェブサイトに掲載されている。
"米国の選挙に敗者はいない。勝とうが負けようが、翌朝目覚めれば米国民だ。( But in an American election, there are no losers, because whether or not our candidates are successful, the next morning we all wake up as Americans.) "
このかっこよさは言語の差なのか。テレビで欧米の演説を聞いていると日本語では、こういう表現は出来ないなというような場面が多々あったりする。そう思っているのは自分だけなのかとも考えたりしたが、多数か少数かは別として少なくとも、そう思っているのは自分だけではないらしい(ちょっと安心)。
メデイアでは米国の分裂ということが言われ、カナダ通信の伝えるところによると3日にはカナダ政府の「移住の手引」に米国から普段の6倍ものアクセスがあったことが報道されている。しかし、1日約2万件が11万5千件になった程度だから、これをもって分裂などと言うには大袈裟だろう。ましてや、実際の移住のための問い合わせは増えていないというからなおさら。
いろいろと細かい意見の相違はあっても、やはり米国は米国という基盤の上で一つと言えるのではないだろうか。
分裂という点で気にかかるのはイラク。
来年1月の国民議会選挙が予定通りに行えるか正念場を迎えている。善と悪とで綺麗に分けて考えることが出来るテレビドラマとは比べ物にはならない複雑さ。こういう複雑な事態になっているのだから、なおさら公正な選挙でイラク国民の民意を反映した議会を選ぶことが重要ではないだろうか。
アルカイーダに近い武装勢力やその他の武装勢力と米軍との間の戦闘が一般住民に犠牲者を出していることは否定出来ない。そして、それは双方の戦闘行為で生じたのだから、軽重は別にして両方に何がしかの責任がある。もちろん、双方に言い分もある。ただ、武装勢力を率いるのがイラク国民の支持を受けたイラクの人ではないとすると、これは代理戦争。イラク国民にとっては迷惑なことこの上ないだろう。
そういったことをはっきりさせるためにも選挙が必要だと思うのは楽観的すぎるかもしれない。そうではあっても楽観的でありたい。
7日にイラク暫定政府が北部のクルド人自治区を除いたイラク全土に60日間の非常事態宣言を出した。反米武装勢力の支配下にあるとされるファルージャの米軍による制圧を法的側面からバックアップするのが目的という。今は剣を持って制するより他に道がないのかもしれないが、これによって剣ではなく米国の民主主義のように言論による闘いで決着を付ける道筋が開かれることを望む。
やはり、国民が自分の意思をはっきりと表明し、その意思に従って自分達の手で自分達の国を作っていくというのが筋。その過程で諸外国の援助を乞うことは場合によっては必要になるだろう。しかし、それは援助という範囲であって、国の行く末や国の枠組みの決定を国民以外に委ねることは間違いのように思うし、国民自身も納得しないだろう。
こうしたことは、アフリカのコートジボワールの国内紛争に介入しているフランスとコートジボワールとの関係についても当て嵌まる。フランスは旧宗主国として、いわば親心的な観点からコートジボワール紛争に介入。これで、コートジボワールの紛争が治まるのならば問題なしと言いたいところだが、コートジボワール国民の感情はそうはいかない。それは、6日に群衆がフランス人学校や在留フランス人宅を放火、略奪したと伝えられていることからも伺える。同じ日にはフランス軍兵舎がコートジボワール政府軍によって空爆され、対抗措置としてフランス軍は同国最大の都市アビジャンを事実上制圧。コートジボワールの国会議長がフランス軍が中立の立場を維持せずに、反政府軍に武器を供給していると非難していることからすると、フランス軍への空爆は公式声明通りに誤爆であったかどうかは疑わしくなってくる。火を鎮めるための介入が、かえって火に油を注ぐ結果になる危険性が大いにある。
こうした海の外の情勢を耳にするにつけ、日本というのは何と平和なのだろうとつくづく思わずにはいられない。
と思っていたら、法務省による2004年版『犯罪白書』で「治安悪化」国民の75%が感じるという結果が出ている。将来も、社会のモラルが低くなるために、治安が悪化すると考える向きが51.3%にも上る。世代を超えた治安の悪化、治安の悪化を懸念するのも国民なら治安の悪化の原因を作り、治安の悪化を引き起こしているのも同じ国民。
備えることも大切だけれど自分の日々の行いも他人に恥じないものにしておきたいと自戒しきり。

羽村山口軽便鉄道跡


東京都の市で唯一、鉄道のない武蔵村山と呼ばれるが、かつては軽便鉄道が通っていた。
村山出身者なら子供の頃にザリガニ釣りをして遊んだ(下)赤坂池のすぐ北にあった幾つかのトンネル群。現在では自転車道として整備されて、武蔵野の面影を楽しむハイキングコースにもなっている。昔はトンネルの中に空洞があったり暗かったりと探検の場でもあった。
そこは、昭和4(1929)年から昭和8(1933)年まで走っていた、多摩湖の建設のために敷かれた羽村取水所-村山村横田-山口貯水池堰堤を結ぶ材料運搬軽便鉄道12.6キロの軌道跡。
一度廃止された後に、戦時中の昭和18(1943)年に空爆対策のために復活。さらに、時を経て現在は軌道の一部が自転車道として生まれ変わっている。

噴火の種類

「浅間山の噴火で火山灰を被ってしまった出荷間近のキャベツが安く売り出されていたわね。
表面に火山灰がかかってしまっただけで、一枚葉っぱを剥がしてしまえば全く問題ないからお徳」
「そのまま一枚剥がして当たり前の値段で売っても良いように思えるけどね、僕なんかからすると。
品質ということでは全く問題ないわけでしょ」
「でもね、そうすると、そうするとというのは生産者の側が火山灰の事に何も触れずに表面の一枚を剥がして売ったとすると、買う側は誤魔化したと感じてしまうんじゃないかしら」
「そうかもしれない。
だったら、買う側は浮いたお金の一部を募金活動に回すとかいうことがあるといいね。実際には味に影響はないわけでしょ。それをきちんと火山灰を被りましたという情報を開示した上で安く売っている。安く売っているということは被害が出ているわけだね、きっと。買った消費者個人個人が募金をというのは大変だなぁ」
「それだったら、販売するスーパーが定価プラスいくらという形で募ったら?」
「強制じゃなくて任意となると煩雑になりそうだね、いづれにしても。でも、自然災害で被った損害を参加型で補う仕組みがあると良いよね」
「それはそれとして、浅間山の噴火はブルカノ式(Vulcanian eruption)っていうのよね。日本の火山では富士山や桜島がブルカノ式で、多くの火山もブルカノ式だって」
「噴出するマグマの流動性とか揮発物成分の量とかの条件によって変わると言われているけどね。
そうしたことを前提として、火山の噴火というのはおおよそ4つに分類されている。
基本的には玄武岩から安山岩になるにつれて粘っこくなる。粘っこくなるということはドカーンと大きな爆発になるということ」
「ブルカノ式はプリニアン式の次に大きな爆発を伴うのよね」
「そうだね。
一番爆発度合いが低くてドロリと流れる形になるのはハワイ式(Hawaiieruption)で、この場合は玄武岩質マグマを出して、火山の地形も楯状火山などとなる。
噴出物はスコリアなどだね」
「スコリアというのはマグマが空中を舞った時に空気が入って穴ぼこだらけになって固まったものね」
「次に粘っこいのはストロンボリ式(Strombolian eruption)の噴火で玄武岩、安山岩質マグマの中心噴火が特徴。
その次が安山岩質の噴出物を中心とするブルカノ式(Vulcanian eruption)。
そして、最も粘っこいのがプリニアン式(plinian eruption)。これは最も粘っこいということで一気に爆発する」
「大爆発する場合があるということね」
「ただ、玄武岩溶岩はマグマがそのままの形で噴出したもの、安山岩溶岩は地表に至るまでのマグマ溜りに溜まったマグマということが出来るわけで、同じ火山でもその時の条件によって噴火の形態は異なる場合があることは覚えていたほうが良いだろうね」

[参考文献]
Q&A 火山噴火?日本列島が火を噴いている!』 ブルーバックス、日本火山学会 (編集)

チェチェン問題

9月1日、北オセチア共和国ベスランで起きた学校占拠事件は300人を越すと見られる犠牲者を出す未曾有の惨劇となった。
北オセチア共和国はロシア連邦に属している。しかし、国境を接する隣りのグルジア共和国には同じオセット人主体の南オセチア自治州があり、両オセットを統合しようという動きがオセチア紛争を産んだ地でもある。
この北オセチア共和国(正式名称は北オセチア・アラニヤ共和国)は1936年に自治州から自治共和国に昇格。
ここからが複雑になる。
隣接するチェチェン地方に住むチェチェン人はロシア帝国のカフカス侵攻に対してイスラムの旗を掲げて長い間カフカス戦争を闘った民族。ロシア帝国に敗れて支配下に置かれるものの、ロシア革命が起こると1921年にはソビエト山岳自治共和国を樹立して独立を果たす。しかし、1936年にはソビエト連邦に併合され、チェチェン・イングーシ自治共和国(the Che-chen-Ingush Autonomous Republic)となる。
この間も絶えず独立問題が燻っていた。そういう状況下で、1942年にナチス・ドイツがバクー油田への橋頭堡としてチェチェン地方を占領。1943年のドイツ軍撤退の翌年には、ドイツ占領時にドイツ軍に協力したという理由によってスターリンによってチェチェン、イングーシ両民族は強制移住させられる。只でさえ、ロシアに対して独立感情を持っているチェチェン人がこうした扱いを受け故郷を追われたことは禍根を残すことになる。
このチェチェン人がいなくなった後のチェチェン地方を併合したのが北オセチア自治共和国。北オセチア自治共和国はチェチェン、イングーシ両民族が戻ってくる1957年まで両地方は北オセチアに含まれることになったわけだが、この時代に北オセチアは首都を地域の中心部であり、かつてのチェチェン・イングーシ自治共和国の首都であるウラジカフカスに定める。ウラジカフカスはチェチェン、イングーシ両民族が戻って来た後も北オセチアの領土とされた。こうした状態は1992年6月にイングーシ共和国がチェチェンから分離した時点で解消されウラジカフカスはイングーシ共和国に戻る。このイングーシ共和国の分離は前年のドゥダーエフ大統領(Dudayev,Jokhar[1944?1996])によるチェチェン・イングーシ共和国独立宣言、ソビエト連邦解体の流れの中で起きている。
イングーシを分離したチェチェンでは独立派と反独立派との間で内戦状態に。ここに、ロシアの軍事介入による第1次ロシア=チェチェン戦争(1994-1996)が勃発。エリツィン政権による大規模攻撃によって首都グロズヌイが陥落、続いてドゥダーエフ大統領も戦死。独立派の劣勢の中で、5年間の独立凍結が独立派とロシアとの間でハサビュルト合意が合意され戦闘は終結する。
合意の後も独立は凍結しているだけだったが、小規模な戦闘行為が繰り返される。
小康状態は1999年にチェチェンのイスラム原理主義勢力がロシア連邦ダゲスタン共和国解放を唱えてロシア軍と交戦。ダゲスタン地方はチェチェン地方と同時にロシア帝国に組み入れられた歴史を持つ(1859)。
ダゲスタンとモスクワで相次いで合わせて約300人が犠牲になった大規模テロ5件が発生したことを受けて、ロシア政府は1999年9月29日に再びチェチェン共和国へ侵攻。ここに、第2次チェチェン戦争が始まる。なお、ロシア軍の侵攻とは言ってもチェチェンは未だロシア連邦内の(自治)共和国であることには注意が必要。
この戦いは2000年に、チェチェン武装勢力が首都グロズヌイから撤退し終結。チェチェン武装勢力はチェチェン以外に活動の場を移した。

[参考文献]
チェチェン やめられない戦争』アンナ・ポリトコフスカヤ (著), 三浦 みどり (翻訳)

プリンスの森

武蔵村山の大南には『プリンスの森』と呼ばれる場所がある。もはや大部分は住宅街になってしまっていて森の面影はない。
この場所がプリンスの森と呼ばれているのは、旧日産自動車村山工場の前身プリンス自動車村山工場に隣接していたからに他ならない。
1959(昭和34)年、富士精密機械工業(株)が自動車事業五ヵ年計画の一環として北多摩郡村山町、砂川町に乗用車工場新設を内定。これは青梅、羽村、五日市、埼玉県日高、神奈川県日吉(川崎)などの候補地を抑えての決定であった。
当時、発展の糸口を探っていた村山町にとっては工場誘致は鉄道誘致と並んでの悲願。村山町側では原山、萩の尾、赤堀、中村、横田、馬場地区が具体的候補地となり地区代表と富士精密との交渉に入る。結果として、この交渉は価格に折り合いが付かず町長による先行交渉という形に切り替わる。この間に砂川町側の土地買収交渉は進展。これを受けて、地主代表者・工場誘致委員会と富士精密との個別交渉から町議会による仲介交渉を行うようになっていく。
村山側の買収交渉がまとまったのは、富士精密が社名をプリンス自動車工業と変えた1961(昭和36)年2月の翌月。
こうして紆余曲折を経て自動車工場が村山に誘致された。その名残が『プリンスの森』。日産自動車村山工場が更地となった今では唯一の名残。

ちなみに、『市史』は『昭和35年事務報告書』から次ぎの言葉を引用している。

「文化都市東京の一隅に置去られようとした、村山町に本日こそ何物か躍動するものを感ぜざるを得ない」

次ぎに武蔵村山市に躍動をもたらすものは何だろうか。



武蔵村山誕生

武蔵村山市は1970(昭和45)年11月1日に東京都北多摩郡最後の町として市制を施行している。
これによって、三多摩の一つ北多摩という名称が行政上は消滅。武蔵村山一帯は平安時代末期に武蔵七党の一つ、村山党が活動の拠点としていたところ。そのために、市制施行にあたっては村山町から村山市となるのがもっとも自然だったが、当時既に山形県に村山市があったために違う市名を名乗らなくてはならないということになった。
そこで、市名選定調査委員会は町民アンケートを行った。候補市名は旧国名を冠した『武蔵村山』、村山党の本拠地の中心部であったことを意味する『元村山』、さらに『西村山』。三番目の『西村山』というのは先に市制を施行していた『東村山』との対という意味合いだろうか。
このアンケートの結果は回答総数2,788のうち、最も多かったのが『武蔵村山』で50.5%。次いで『西村山』が36.8%。最も少なかったのが『元村山』。
こうして、候補として『武蔵村山』と『西村山』に絞り込まれ高橋正緩町長に答申、市制推進委員会で『武蔵村山』と決定。
ここに晴れて武蔵村山という名称の誕生となった。