
イエメンはアラビア半島南西部に位置する国家であり, その歴史は古代オリエント世界における交易文明の展開から, イスラム化, 帝国支配, 近代国家形成, さらには現代の内戦に至るまで, 長期的かつ複雑な過程を経て形成されてきた.
| 国名 | الجمهورية اليمنية,イエメン共和国,Republic of Yemen |
| 面積 | 55.5万平方キロメートル(日本の約1.5倍弱) |
| 人口 | 約2,983万人 |
| 首都 | サヌア |
| 民族 | アラブ人 |
| 言語 | アラビア語 |
| 宗教 | イスラム教スンニー派,ザイド派 |
古代においてイエメンは「アラビア・フェリクス[幸福のアラビア]」と呼ばれ, 乾燥したアラビア半島にあって比較的降水量に恵まれた地域として, 農業および交易の中心地であった.特に乳香や没薬といった香料の交易路を掌握したことにより, 南アラビア諸王国が繁栄した.その代表が紀元前10世紀ごろに栄えたサバア王国[シバ王国]であり, 同王国はマーリブ大ダムに象徴される高度な灌漑技術とともに都市文明を築いた.その後, ヒムヤル王国が勢力を拡大して南アラビアを統一し, 4世紀から6世紀にかけて地域の覇権を握った.こうした南アラビア文明は, 地中海世界とインド洋世界を結ぶ中継地として重要な役割を果たした.
しかしながら, 紀元後に入ると交易路の変化や環境的要因によって南アラビア諸王国は衰退し, 6世紀にはエチオピアのアクスム王国がヒムヤル王国を征服した.その後, ササーン朝ペルシアがアクスムを駆逐してイエメンを支配下に置いた.
7世紀にはイスラム勢力の拡大により, イエメンは比較的早期にイスラム化され, カリフ制の一部として政治的・宗教的統合が進められた.9世紀に入ると, ザイド派のイマームであるヤフヤ・アリー・アル=ハーディーが北部山岳地帯に拠点を設け, ラシド朝を創設した.このザイド派はシーア派の一分派であり, イエメン北部において宗教的権威と政治権力を結びつけた独自の統治体制を長期にわたって形成した.一方, 沿岸部や南部ではスンナ派勢力や交易都市が発展し, 地域内で宗派的・経済的な多様性が維持された.
中世以降, イエメンはアイユーブ朝やラスール朝など諸王朝の支配を経ながら, 山岳部を中心にザイド派イマームの自治的支配が続いた.十字軍時代にキリスト教勢力がイエメン本土を支配したことはなく, 地域はイスラム圏内に留まり続けた.
16世紀以降, イエメンはオスマン帝国の支配下に入ったが, その統治は低地部や都市部に概ね限られており, 山岳地帯を中心にザイド派勢力が実質的な自治を維持した.ザイド派イマームは1636年にオスマン勢力を北部から一時的に駆逐することにも成功している.その後オスマン帝国は19世紀に再びイエメン北部を占領したが, 抵抗は続いた.
19世紀にはイギリスが南部のアデンを1839年に占領し, スエズ運河開通後は紅海およびインド洋航路の要衝として支配を強化した.イギリスはアデン周辺の首長国を順次保護領に組み込み, 南アラビア保護領を形成した.これにより, イエメンは北のオスマン支配地域と南のイギリス支配地域に分断されることとなり, この分断が以後の南北イエメンの歴史的相違の原型となった.
第一次世界大戦後にオスマン帝国が崩壊すると, 1918年に北イエメンではザイド派イマームを国王とするイエメン・ムタワッキル王国が独立を宣言した.しかし, この王国は中世的な封建体制を維持し, 近代化から大きく遅れをとっていた.
1962年9月, サッラール将軍によるクーデターが勃発して王制が打倒され, イエメン・アラブ共和国[北イエメン]が成立した.しかし共和派を支持するエジプトと, 王政派を支援するサウジアラビアがそれぞれ介入し, 1970年まで続く北イエメン内戦へと発展した.内戦終結後, 1978年に若手将校のアリー・アブドッラー・サーレハが権力を握り, 以後30年以上にわたる長期政権を敷くこととなった.
南部ではイギリスからの独立を求める民族主義運動が高まり, 1967年に南イエメン人民共和国として独立を達成した.その後, 1970年にマルクス・レーニン主義を掲げる政権が成立してイエメン人民民主共和国[南イエメン]に改称した.中東唯一の本格的なマルクス主義国家として, ソ連・キューバなどと緊密な関係を結んだ.
こうしてイエメンは冷戦構造の中で, 資本主義体制の北イエメンと社会主義体制の南イエメンという異なる政治体制を持つ二国家として並立することとなった.両国はたびたび国境紛争を引き起こしながらも, 統一への模索を続けた.
1990年5月22日, ソ連崩壊の影響で経済的に行き詰まった南イエメンが北イエメンとの統合を受け入れる形で, 現在のイエメン共和国が成立した.サーレハが大統領に, 南イエメン指導者のベイドが副大統領に就任した.
しかし, 統一後も南北間の権力配分・経済格差・旧軍の処遇をめぐる対立は解消されなかった.1993年の選挙後に連立政権が機能不全に陥り, 1994年5月に南部勢力が再独立を宣言して内戦が勃発した.同年7月に北部軍がアデンを制圧して内戦は終結し, サーレハ政権のもとでの統一国家体制が確立された.この敗北により, 南部指導層は政治的主導権を失い, 以後の「南部問題」[南部分離主義運動]の伏線となった.
フーシ派[正式名称アンサール・アッラー]の起源は, 1990年代にイエメン北部サアダ州で展開されたザイド派復興運動にある.サウジアラビアの資金援助を受けたスンナ派ワッハーブ派の宣教活動が北部山岳地帯に浸透し, ザイド派の宗教的・社会的地位が脅かされる中, フセイン・バドルッディーン・フーシ師が「信仰する若者」と呼ばれる運動を組織した.背景には, サーレハ政権が1996年のIMFによる構造調整の過程で部族長を懐柔し, ハーシド・バキール両部族連合の政治的影響力を削いだことへの若い部族民の幻滅も深く関係していた.フーシ師は2004年に治安当局との衝突で殺害され, 組織名はその死後に「フーシ派」と呼ばれるようになった.現指導者はフセインの異母弟アブドルマリク・アル・フーシ[1982年生まれ]である.
2011年1月, チュニジアのジャスミン革命から4日後に首都サナアで学生の反政府運動が始まり, アラブの春の波がイエメンにも到来した.30年以上権力を握ってきたサーレハ大統領への退陣要求が高まり, 非暴力の民主化運動を組織した女性ジャーナリスト, タワックル・カルマンが同年のノーベル平和賞を受賞した.サーレハは同年11月に退陣を表明し, 副大統領ハーディーが2012年の選挙で正式に大統領に就任した.
しかし, 新政権の移行期の混乱に乗じてフーシ派は勢力を拡大した.2014年9月にフーシ派は首都サナアを武力で掌握し, ハーディー政権の閣僚に辞表を提出させて事実上のクーデターを実行した.ハーディー大統領は2015年2月に南部アデンへ脱出し, フーシ派を「クーデター」と非難した.これに対しサウジアラビアは同年3月, スンナ派アラブ諸国の連合軍を組織してイエメンへの軍事介入[空爆]を開始した.一方, イランはフーシ派を支援し, 内戦はサウジアラビアとイランの代理戦争の様相を呈することとなった.
なお, 旧南イエメン系の「南部暫定評議会[STC]」も独立を求めてハーディー政権と対立し, 内戦は単純な二極構造ではなく, 三つ以上の武装勢力が入り乱れる複雑な構図となっている.
内戦の長期化により, イエメンは国連が「世界最悪の人道危機」と形容する状況に陥った.
サウジアラビア主導の連合軍とフーシ派は2022年4月に国連の仲介で2か月間の停戦に合意し, その後も断続的に停戦状態が維持されたが, 恒久的な和平には至らなかった.2023年3月にはイランとサウジアラビアが中国の仲介で国交を正常化し, 両国はイエメン内戦終結に向けて協力することで合意したが, その後も和平交渉は難航している.内戦による死者はこれまでに15万人を超えるとされ, 2024年時点でも1,000万人を超える子どもが緊急の人道支援を必要としている.
2023年10月のガザ戦争勃発を受け, フーシ派はパレスチナ支持を掲げて紅海を航行する商船への攻撃を開始した.フーシ派は当初イスラエル関連船舶のみを標的とすると主張したが, 間もなく国籍を問わず無差別に攻撃を拡大した.2023年11月から2024年末にかけて100隻以上の商船がミサイルやドローンで攻撃を受け, 年間1兆ドル規模の物資が輸送される紅海航路の貿易は大幅に縮小した.
これに対し, 2024年1月12日にアメリカとイギリスは, オーストラリア・バーレーン・カナダ・オランダ等の支援を受けてイエメン国内のフーシ派軍事拠点28か所への空爆を実施した.フーシ派はその後も攻撃を継続し, 2024年7月にはテルアビブへのドローン攻撃で1人が死亡する事態も発生した.イスラエルも同月, フダイダ港の石油精製施設等を報復空爆した.
2025年1月にガザ停戦が発効するとフーシ派は商船攻撃を一時停止したが, 同年3月にイスラエルがガザへの物資搬入を制限すると攻撃を再開すると表明した.これに対しトランプ大統領は3月15日, フーシ派の拠点への大規模な軍事攻撃を命令した.フーシ派の保健当局によれば, 米軍の攻撃で少なくとも31人が死亡したという.その後もフーシ派は紅海での商船攻撃を継続しており, 2025年7月時点においても内戦と国際的な紛争は解決の見通しが立っていない.
イエメンは現在, フーシ派が北部・中部を実効支配し, 国際承認を受けた政府[大統領指導評議会]が南部・東部を管轄し, さらに南部暫定評議会が南部の一部を支配するという, 国家統治機構が三分裂した状態にある.石油収入は激減し, 通貨は暴落, インフラは壊滅的な損害を受けた.アラビア半島で最も貧しい国であったイエメンは, 内戦によってさらなる経済崩壊と社会の解体に直面している.地理的条件と宗派・部族・南北の三重の亀裂が絡み合うこの国の統治再建は, 国際社会にとっても極めて困難な課題であり続けている.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.