
イスラエル国は, 古代オリエント世界に起源を有するユダヤ人の歴史的記憶と, 近代ヨーロッパにおける民族主義運動とが交錯することによって成立した国家である.その歴史は, 単なる近現代国家の形成史にとどまらず, 宗教的伝統, ディアスポラ, 帝国支配, 植民地主義, そして国際政治の力学が複雑に絡み合う長大な時間軸の中で理解されるべきものといえる.
| 国名 | מְדִינַת יִשְׂרָאֵל,イスラエル国,State of Israel |
| 面積 | 22,072平方キロメートル |
| 人口 | 9,289,761人[2020] |
| 首都 | エルサレム.国連決議上はテルアビブ. |
| 民族 | ユダヤ人[欧米系アシュケナジム〔Ashkenazim,אשכנזים〕,アジア・アフリカ系セファルディム〔Sephardim,ספרדים〕,オリエント系ミズラヒム〔Mizrachim,מזרחים〕].アラブ人 |
| 言語 | ヘブライ語,イディッシュ語.アラビア語[2018年7月19日に公用語から除外]. |
| 宗教 | ユダヤ教.イスラム教,キリスト教,イスラム教ドゥルーズ派. |
古代において, イスラエルの起源は紀元前2千年紀末から紀元前1千年紀初頭にかけてのカナン地方に遡る.この地域においてヘブライ人は部族的共同体を形成し, やがて王政へと移行したと伝えられる.伝承によれば, ダビデおよびソロモンの時代に統一王国が成立し, エルサレムが宗教的・政治的中心となった.しかしこの統一は長続きせず, 王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂し, 前者はアッシリアによって滅ぼされ, 後者も新バビロニアによって征服されるに至った.このときのバビロン捕囚[紀元前586年頃]は, ユダヤ人の宗教意識と民族意識の形成に決定的な影響を与えた出来事である.
その後, この地域はアケメネス朝ペルシア, ヘレニズム諸王国, そしてローマ帝国の支配下に置かれた.ローマ支配期にはユダヤ人の反乱が相次ぎ, 特に紀元70年のエルサレム神殿の破壊および2世紀のバル・コクバの乱の鎮圧は, ユダヤ人の大規模な離散をもたらした.このディアスポラは, 以後約二千年にわたりユダヤ人が世界各地に分散して居住する歴史の出発点となったのである.
中世から近世にかけて, パレスチナの地はイスラム勢力の支配下にあり, 十字軍時代を経て最終的にはオスマン帝国の統治に組み込まれた.一方, ディアスポラのユダヤ人はヨーロッパ各地や中東, 北アフリカに広く分布し, ときに迫害や差別に直面しながらも宗教的・文化的共同体を維持し続けた.こうした経験は, 近代における民族的再統合の思想的基盤となる.
19世紀後半になると, ヨーロッパにおける民族主義の高揚と反ユダヤ主義の激化を背景として, ユダヤ人の民族的故地への帰還を目指すシオニズム運動が形成された.この運動の理論的指導者として知られるのがテオドール・ヘルツルであり, 彼はユダヤ人国家の建設を国際政治の場で提唱した.これに伴い, オスマン帝国支配下のパレスチナへのユダヤ人移住が徐々に進行した.
第一次世界大戦中, イギリスはバルフォア宣言[1917年]において, パレスチナにおけるユダヤ人の「民族的郷土」の建設を支持する姿勢を示した.この宣言は戦後の国際秩序において重要な意味を持ち, オスマン帝国崩壊後, パレスチナはイギリスの委任統治領となった.しかしこの地には既にアラブ人住民が多数居住しており, ユダヤ人移民の増加は両者の間に深刻な対立を生むこととなった.
第二次世界大戦とホロコーストは, ユダヤ人国家建設の必要性を国際社会に強く認識させる契機となった.戦後, 国際連合はパレスチナ分割案[1947年]を提示し, ユダヤ人国家とアラブ人国家の設立を提案したが, アラブ側はこれを拒否した.こうした状況の中で, 1948年5月にイスラエル国家が建国され, 直ちに周辺アラブ諸国との戦争, すなわち第一次中東戦争[1948〜1949年]が勃発した.この戦争の結果, イスラエルは分割案で示された以上の国土を確保した一方, 70万人以上のパレスチナ人[アラブ系住民]が難民化するという問題が発生した.この出来事はアラブ側に「ナクバ[大惨事]」と呼ばれ, パレスチナ問題の根幹に位置する.
その後もイスラエルは, 1956年のスエズ危機[第二次中東戦争], 1967年の第三次中東戦争[六日間戦争], 1973年の第四次中東戦争[ヨム・キプール戦争]など, 繰り返し軍事衝突を経験した.特に1967年の戦争においては, イスラエルがヨルダン川西岸地区, ガザ地区, 東エルサレム, シナイ半島, ゴラン高原を占領した.これが現在に至る領土問題およびパレスチナ問題の核心を形成している.国連安全保障理事会は決議242号を採択してイスラエル軍の占領地からの撤退を求めたが, イスラエルはこれに応じなかった.1970年代以降は占領地への入植地建設が強化され, パレスチナ人の反発を招いた.
20世紀後半以降, 和平に向けた試みも行われた.1978年のキャンプ・デービッド合意によってエジプトとの和平が成立し[正式な平和条約は1979年調印], 1994年にはヨルダンとも平和条約が締結された.さらに1980年代後半に占領地から始まった民衆蜂起[インティファーダ]を背景として, 1993年にはノルウェーの仲介によりイスラエルとパレスチナ解放機構[PLO]との間でオスロ合意が成立し, パレスチナ自治政府が設立された.
しかしながら, 和平プロセスは早期に難航する.1995年にオスロ合意を推進したイツハク・ラビン首相がイスラエル人過激派に暗殺され, 1996年にベンヤミン・ネタニヤフが首相に就任するとオスロ合意のプロセスは事実上停滞した.2000年のキャンプ・デービッド首脳会談も最終的地位問題をめぐる溝が埋まらず決裂し, 同年, イスラエル右派のアリエル・シャロンによるエルサレムのイスラム聖地訪問をきっかけに第二次インティファーダが勃発した.この間の暴力の激化により, 入植地問題, エルサレムの地位, 難民帰還権などをめぐる対立は深まり, 和平の展望は遠のいた.
2005年, イスラエルはガザ地区から軍と入植者を撤退させた.しかし2006年のパレスチナ立法評議会選挙でイスラム組織ハマスが過半数を獲得し, 翌2007年にはガザ地区の実効支配を確立した.これに対しイスラエルとエジプトはガザを封鎖し, 以後ガザは「天井のない監獄」とも評される経済的・人道的危機に置かれることとなった.ヨルダン川西岸地区はファタハ主導のパレスチナ自治政府が統治を続け, パレスチナは政治的に分裂状態となった.
2008〜2009年および2014年にはイスラエルによるガザへの大規模な軍事作戦が実施され, 多数の民間人を含む犠牲者が生じた.この繰り返す衝突により, 国際社会におけるイスラエルへの批判も高まっていった.
2020年, アメリカのトランプ政権の仲介により, イスラエルとアラブ首長国連邦[UAE]・バーレーンが「アブラハム合意」に署名し, 国交を正常化した.その後スーダンおよびモロッコも相次いで国交正常化に合意した.1979年のエジプト, 1994年のヨルダンに続くこの動きは, アラブ・イスラエル関係における歴史的な転換点とみなされた.合意はイランへの対抗や経済・技術協力を主な動機とし, パレスチナ問題の本質的解決を前提としないものであったため, パレスチナ自治政府やその他のアラブ・イスラム諸国からは強い反発を受けた.バイデン政権下でもサウジアラビアとの国交正常化に向けた交渉が続けられていたが, 後述の2023年の事態によって中断を余儀なくされた.
2023年10月7日, ハマスはガザ地区からイスラエルに対して大規模な越境奇襲攻撃を敢行し, イスラエル側では1,100人以上の死者と約240人の人質被害が生じた.この事件はイスラエル社会に未曾有の衝撃を与え, 建国以来の諜報・防衛体制の大きな失敗として国内外から批判を受けた.
イスラエルはただちにハマスの壊滅とガザ地区の非武装化を目標に掲げ, ガザへの激烈な空爆および地上侵攻を開始した.ガザ地区では民間人を含む死者数が急増し, 人道的な危機が深刻化した.国連機関は機能麻痺に追い込まれ, 国際社会ではイスラエルの軍事行動の合法性をめぐる議論が起きた.国際司法裁判所や国際刑事裁判所においても, 国際人道法上の問題として手続きが開始された.また欧州諸国を中心にパレスチナ国家承認の動きが広がった.
国内ではネタニヤフ政権の作戦方針や停戦交渉の進め方をめぐる対立が深まり, 超正統派ユダヤ教徒への徴兵免除問題など, 社会的分断が顕在化した.レバノンのヒズボラや, イエメンのフーシ派, さらにイラン本国からの攻撃も相次ぎ, 紛争の多正面化・長期化が進んだ.
2023年11月に一時的な停戦が成立したほか, 2025年1月にも42日間の停戦が発効したが, 同年3月にイスラエルはガザへの再攻撃を開始し, 停戦は事実上崩壊した.
Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.