滝之川梶原氏館

北区堀船にある梶原景時(1140-1200)の子孫が居を構えたとされる場所です。

梶原景時は石橋山の戦いで窮地に陥った源頼朝を救い、その功によって侍所別当に任ぜられ、源頼朝のダークな面を支えた側近として知られています。

しかし、そのために鎌倉幕府の御家人からは源頼朝の代わりに非難を一身に受ける立場となってしまいます。

源頼朝が亡くなり、第2代将軍として源頼家(1182-1204)が即位すると、源頼家と有力御家人衆が対立。これに対して、結城朝光(1168-1254)が「忠臣は二君に仕えず」という心情の吐露を源頼家の側近である梶原景時が将軍への誹謗として糾弾。しかし、逆に、三浦義村、和田義盛ら諸将66名が結城朝光を擁護し、梶原景時の排斥を要求する連判状が源頼家に出されるという事態に。

源頼家から連判状を受け取った梶原景時は弁明をせずに自らの相模国一ノ宮館に退去。一族を率いて京都へ上ろうと駿河を通りかかった時に駿河の吉川友兼(1159-1200)によって討ち取られました。

この時に、梶原一族のほとんどは討死しますが、梶原景時の次男の梶原景高(1165-1200)の子景継は第3代将軍源実朝の代になって幕府への帰参を許されています。また、梶原景時の三男の梶原景茂(1167-1200)の子孫も各地方に散りました。1254(建長6)年に第6代将軍宗尊親王(1242-1274)に足利義氏が椀飯を献じたとき、献上の馬をひいた御家人の中にいた梶原景綱は梶原景茂の子孫とされます。

このように、梶原一族は北条得宗家や足利家の御内人として地位を確立していきました。その中には鎌倉公方足利氏に仕え古河公方奉行人として第5代足利義氏まで仕えた一族が知られています。

滝之川梶原氏館を最後に本拠としたのは、武蔵岩槻城主・太田資正(1522-1591)の次男で梶原上野介未亡人の養子となった梶原政景(1548-1615)。

梶原政景は1560(永禄3)年に父親の太田資正が上杉謙信に与して、第4代古河公方足利晴氏の子の足利藤氏の擁立を目指すと、後北条氏に擁立されていた第5代足利義氏のもとを去っています。ところが、梶原政景の兄の太田氏資(1542-1567)が岩槻城から父の太田資正を追放、後北条への忠誠を鮮明にします。この時、梶原政景は幽閉されますが、佐竹義重を頼って脱出。関ヶ原の戦いの後に佐竹義重が秋田に転封されると、これには従わず、結城秀康に仕官して福井に移りました。

この過程で滝之川梶原氏館は廃されたと考えられます。


2015年6月14日訪問

梶原氏ゆかりの城館として、他に、馬込城梶原氏館一宮館があります。