筒戸城

茨城は谷和原にあるお城。

小貝川左岸の舌状台地に位置していて、東西は水田化した谷津、南は同じく水田化した低地という三方要害となっています。

1559(永禄2)年に相馬一族の筒戸氏によって築城されました。1589(天正17)年、筒戸衛門が城主であった時、多賀谷家の重臣で大曽根城主の白井全洞が率いる150騎によって攻められて落城したとも守谷城からの救援によって守りきったとも伝えられています。翌年の1590(天正18)年には豊臣秀吉による小田原征伐が行われ、多賀谷重経(1558-1618)は結城晴朝、水谷勝俊とともに豊臣秀吉のもとへ馳せ参じています。一方、筒戸氏の本家に当たる下総相馬氏の相馬治胤・胤永兄弟は後北条方として小田原城に籠城しています。この経緯からすると、筒戸城は1589年の多賀谷氏による攻城時には持ちこたえたものの、後北条氏が豊臣秀吉に敗れ後北条氏第4代北条氏政、その弟の氏照が切腹して以降、下総相馬氏の所領の処分に従って筒戸城は廃城になったと思われます。

なお、主要な筒戸城主として相馬小三郎胤親、相馬小次郎胤長、相馬胤親、相馬左近大夫治胤、相馬胤房が知られています。相馬治胤は守谷城主でもありますから、筒戸城の重要性が伺えます。実際、守谷城主の相馬治胤は高井城に胤永、筒戸城に胤房、大木城に胤清を置いて本城である守谷城の守備を固めていました。


二の丸に建つ禅福寺


中城と呼ばれる本丸に残る土塁