大宝城

茨城の下妻にある大宝八幡神社にあったお城。

かつて、大宝城の周囲は大宝沼に囲まれていたといいますから、大宝城は水に浮かぶ城であったともいえます。

平安時代、現在の茨城に相当する常陸国は常陸平氏が統治していました。常陸平氏は伊勢平氏と同族の名門。898(昌泰元)年に上総介平高望とともに坂東に下向した息子の平国香が前任の常陸大掾源護の娘を妻として常陸大掾の地位を受け継いだことに始まります。常陸大掾平国香は甥の平将門と対立し石田館を焼き討ちされ亡くなります。

平国香嫡男の平貞盛は藤原秀郷の助力によって平将門を討ち取ります。その戦功として常陸に所領を得ましたが本拠地を京都に移したために、弟の繁盛の子の維幹を養子として迎えて常陸の所領を譲りました。平維幹は筑波郡多気に本拠地を定めて勢力を拡大させていき常陸平氏の祖と呼ばれるようになりました。常陸平氏の嫡流は大掾職を代々継承し大掾を名乗ります。この流れから、肥前の鎮西平氏、城氏を名乗る越後平氏、仁科氏を始めとする信濃平氏、岩城氏を始めとする海道平氏を分出させていきます。

平安時代の末期には常陸平氏の平直幹が下妻周辺を下妻庄として支配しました。1174年、平広幹は父の平直幹から下妻庄を受け継ぎ、下妻氏として自立します。

平清盛の平家政権が全盛の頃は同族である常陸平氏も安泰でした。

しかし、源頼朝が関東で挙兵すると様相は一変します。1181年、平清盛が死去すると、かねてから源頼朝とは別行動を採っていた源頼朝の叔父で常陸国信太荘を本拠とする志田義広は源頼朝討伐の兵を挙げます。これに参加したのが下妻広幹、下野国の藤原姓足利俊綱・忠綱父子。対して、源頼朝には小山朝政、結城朝光、長沼宗政、佐野基綱、下河辺政義、八田知家らが加わりました(野木宮合戦)。この戦いで志田義広は敗れ常陸国信太荘を失います。

野木宮合戦の結果、下河辺政義が常陸国南郡の惣地頭職を得ます。この地は下妻広幹の所領だった場所です。その他、信太荘が八田知家、村田下荘が小山朝政に与えられました。下妻広幹の元には下妻荘のみが残されました。ところが、1193(建久4)年に、曾我兄弟の仇討時に、八田知家によって謀反の嫌疑掛けられ、常陸大掾氏の多気義幹とともに下妻広幹は失脚します。代わって、八田知家が常陸守護となり常陸国を掌握します。そして、常陸国村田下荘(下妻荘)と下妻宮(大宝八幡宮)の地頭職は小山朝政(1155-1238)に与えられました。

これによって下妻は小山氏の支配下となり、1230(寛喜2)年に小山朝政から下妻の地頭職を受け継いだ孫の小山長政(-1252)は下妻を名乗ります。この下妻長政が1232(貞永元)年に築城したのが大宝城です。

時代は下って、南北朝時代。足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に叛旗を翻すと、結城氏、小山氏、佐竹氏、大掾氏などは北朝に与し、小田氏、白河結城氏、関氏そして下妻氏は南朝に与して熾烈な戦いを繰り広げることになります。

1337(延元2/建武4)年になると北朝が優勢となり、関氏は関城、下妻氏は大宝城に籠城を余儀なくされます。1338年に多賀城を目指した南朝の北畠親房が常陸に漂着し小田城に入城すると南朝の攻勢が始まります。春日中将顕国も北畠親房に加わります。

1341(興国2/暦応4)年、後村上天皇の綸旨を奉じた関白近衛経忠が関東の南朝勢力を結集する藤氏一揆構想が持ち上がると、常陸で闘っていた同じく南朝方の北畠親房・春日中将顕国陣営に動揺が走ります。ここに北朝方の関東執事高師冬が反撃を開始します。この反撃によって南朝方であった小田治久(1283-1353)が降伏。高師冬の軍門に下り、北朝方として関・大宝両城攻撃を行います。

北畠親房は白河結城親朝(-1347)に救援を求めます。しかし、白河結城親朝は北朝方の奥州総大将石塔義房の攻勢に晒され、遂には1343(興国4/康永2)年に所領安堵と引き換えに降伏してしまいます。つまり、白河結城親朝は北畠親房の救援に応えられるような情況ではなく自らが滅亡しかねない情況にあったことになります。

関東執事高師冬は関城と大宝城の間の水路を断ち両城を孤立させた上で両城に総攻撃を敢行します。この戦いで、北畠親房と春日中将顕国は脱出に成功したものの、関宗祐・宗政親子と下妻政泰は討死し関城、大宝城は落城しました。