太田城

茨城は下妻にある多賀谷三経(1578-1607)の居城です。

多賀谷三経の父親の下妻城主・多賀谷重経(1558-1618)は結城氏の家臣ではありましたが、結城氏からの独立を目指して上杉謙信や佐竹義重(1547-1612)と同盟関係を結んで領地の拡大を図りました。

豊臣秀吉による小田原征伐では、多賀谷重経は豊臣方として後北条氏を攻撃する側に回ります。

小田原征伐の後、徳川家康が江戸に入府し、徳川家康の子で豊臣秀吉の養子となっていた秀康が豊臣秀吉の命によって結城晴朝(1534-1614)の姪の鶴子(結城晴朝の妹を正室とする水戸城主・江戸重通の娘)と結婚し結城家を継ぎます。これに伴って、多賀谷重経は結城家の家臣団として組み込まれます。再三にわたって結城家からの独立を目指していた多賀谷重経にはこの措置は耐えがたく、娘(珪台院)を佐竹義重の子の宣家と結婚させ、養嗣子として迎え入れて佐竹家の傘下に入ります。

この時、多賀谷三経は結城秀康に従っていたために父によって追放されてしまいます。多賀谷三経は最初は近くの和歌城を居城とし、後に、太田城を築城して移ったといいます。

更に、多賀谷重経は文禄の役(1592)に非協力的な態度をとったために、豊臣秀吉によって下妻城を没収されてしまいます。下妻城は豊臣秀吉の命令で徳川秀忠が破却。

豊臣秀吉の死後、豊臣秀吉によって関東の徳川家康の監視役という役目を担わされていた上杉景勝(1556-1623)が、石田三成(1560-1600)と連携して神指城を築城し軍事力の増強を行います。これに対して、徳川家康が会津征伐を敢行(1600)。江戸から会津に向う途上の小山で石田三成の挙兵の報せを受けて、急遽、結城秀康を上杉景勝への備えとして残留させ、西に反転。関ヶ原で徳川家康の東軍と石田三成の西軍が激突。

この戦いの中で、かつて、徳川秀忠に下妻城を破却されたことが影響したのか、結城秀康への臣従の拒否からか、多賀谷重経は上杉景勝に与します。これによって、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝つと多賀谷家は遂に改易となってしまいます。佐竹家から入って多賀谷家を継いでいた多賀谷宣家は改易に伴って佐竹家に戻り岩城家を継ぐこととなり、多賀谷家の家臣団は分散してしまいます。

太田城にあった多賀谷三経は一貫して結城秀康に従い、改易により分散してしまった旧多賀谷家臣団の一部を抱え、結城秀康が上杉景勝を防いだ戦功によって越前に加増転封となると、3万2,000石で越前柿原に所領を得て下妻の地を後にしました。多賀谷三経は結城家の家老であり、柿原に移る際に率いた家臣団は200余騎だったといいます。柿原の館は多賀谷左近館と呼ばれました。

太田城は龍昌院から愛宕神社を含む一帯にありましたが、多賀谷三経が越前へと移ったために築城の途中だったと伝わります。


2015年6月7日訪問