ルネサンス期[Renaissance]の神聖ローマ帝国[Heiliges Römisches Reich:800/1806]・ニュルンベルク[Nürnberg]出身の画家であるアルブレヒト・デューラー[Albrecht Dürer, 1471-05-21/1528-04-06]の作品.
この作品は,1520年から1521年のネーデルラント[現在のベルギー・オランダ]滞在中に制作された銀筆による素描である.この作品は単独の肖像画としてではなく,油彩画『書斎の聖ヒエロニムス』[1521年]の準備素描として制作された.デューラーはこの作品において,加齢による皮膚の皺やたるみ,骨格の突出といった老化の痕跡を克明に捉えており,理想化を排した観察に基づく描写態度が一貫している.
この作品のモデルとなった人物について,デューラー自身が素描の余白に「93歳の男」と記しており,作成年と共に記録されていることから,写生対象の年齢が実際に93歳であったことが裏付けられる.この老人は,最終的に『書斎の聖ヒエロニムス』において聖ヒエロニムスのモデルとして用いられた.作中の人物は帽子をかぶり,前を向いてやや視線をずらした姿勢で描かれており,その視線と表情には沈着と内省の趣が漂っている.頭部の骨格構造や眼窩の落ち込み,皮膚の質感といった細部に至るまで,銀筆という繊細な技法を用いて正確に描出されている.
この作品の意義は,単なる肖像画の範疇にとどまらず,デューラーの人間観察と自然主義的姿勢,さらには老いという主題への芸術的関心を象徴するものとして位置付けられる.15世紀末から16世紀初頭にかけてのドイツ美術において,人間の肉体的現実をここまで徹底して描こうとする試みは例が少なく,ルネサンス期の自然観と人文主義的精神に根ざしたデューラー独自の眼差しが示されている.
なお,この素描は現在,ウィーンのアルベルティーナ美術館に所蔵されている.保存状態は良好であり,銀筆による線描の鮮明さも保持されている.デューラーの素描の中でもとりわけ完成度が高く,同時代の画家たちによる模写や研究の対象ともなった.また,この準備素描を基に制作された油彩画『書斎の聖ヒエロニムス』は,1521年3月にネーデルラントのポルトガル貿易使節団の団長であるロドリゴ・フェルナンデス・デ・アルマダに寄贈され,現在はリスボンの国立古美術館に所蔵されている.
以上のことから,本作はデューラーの肖像表現の一到達点であると同時に,老いのリアリズムを美術の主題とした先駆的作品であり,さらには宗教画制作における写実的研究の重要な資料としても評価される.
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"