

新古典主義の代表的画家であるジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David:1748-08-30 – 1825-12-29)による1788年の作品。
ホメロスの『イリアス』に至る物語の発端となった、トロイア王子パリスとスパルタ王妃ヘレネの愛を主題として描いた作品である。画面寸法は縦1.46メートル、横1.81メートルの油彩画であり、画面左下には「L. David faciebat Parisiis anno MDCCLXXX-VIII」と署名年記が記されている。現在はルーヴル美術館(ドゥノン翼2階702室)に所蔵されており、番号INV 3696として登録されている。
本作は、シャルル・フィリップ(後の国王シャルル10世、当時のアルトワ伯爵)の注文により1785年から86年頃にかけて制作が依頼され、伯爵がバガテル城に所有していた寝室を飾るための作品であったと伝えられる。1789年のサロンに出品され、当時すでに享楽的な生活で知られていたアルトワ伯爵の私生活を暗に風刺する作品としても解釈されてきた。ダヴィッドの画業においては、『ソクラテスの死』(1787年)に続き、『リクトルがブルータスに息子たちの遺体を運ぶ』(1789年)へと至る時期に位置づけられる作品であり、後年の『テニスコートの誓い』や『マラーの死』のような政治色の強い革命主題の作品群とは異なり、なお宮廷的な優美さを残した「ギャラント」様式の到達点として知られている。
物語の中心となるヘレネは、ギリシア世界で最も美しい女性として知られ、スパルタ王メネラオスの王妃であった。一方のパリスはトロイアの王子であり、女神たちの「美の審判」においてアフロディテへ勝利を与えた代償として、「世界で最も美しい女性」であるヘレネを与えられることを約束される。その結果、ヘレネはパリスと恋に落ち、あるいは彼によって連れ去られ、二人はトロイアへ向かう。この出来事がギリシア諸王の怒りを招き、やがて十年に及ぶトロイア戦争へと発展するのである。したがって、本作が描く穏やかな恋愛の情景は、同時に文明世界を揺るがす大戦争の直前という、極めて象徴的な瞬間でもある。
画面では、パリスが優雅な姿勢で腰掛け、リュラ(竪琴)を手にしながらヘレネへ愛を捧げている。彼の身体は古代彫刻を思わせる均整の取れた理想的な裸体として表現され、柔らかな光によって筋肉の起伏が繊細に描写されている。裸体でありながら官能性だけを強調するのではなく、古典美術の理想的人体として構築されている点は、新古典主義を代表するダヴィッドらしい特徴である。
ヘレネはパリスの傍らから静かに身を寄せ、その肩へ優しく手を添えている。身体は薄く透ける白い衣によって覆われ、淡い桃色のマントが柔らかく流れるように配置されている。彼女の視線は恋人へ穏やかに向けられ、二人の距離は極めて近く、互いの愛情が静かな身振りによって示されている。激情的な抱擁や劇的な表情を避け、抑制された感情表現によって愛情を描き出していることも、本作の特徴である。
構図全体としては、厳密な左右対称というよりも、中央に位置する二人の人物へ視線を集中させる求心的な配置がとられており、加えて手前を暖色で明瞭に、奥へ進むにつれて色調を寒色寄りにぼかしてゆく空気遠近法的な処理によって、画面に奥行きが与えられている。色彩は白、桃色、金褐色を基調としながら、古典的な均衡を保って配置されており、輪郭線は明瞭で、陰影は滑らかに処理され、物体の質感や人体の量感が精密に描かれている。このような明晰な描写は、ロココ美術の装飾性や筆触の軽やかさとは対照的であり、理性と秩序を重視した新古典主義の理念を体現している。
一方で、この作品には新古典主義としては珍しく、官能的な雰囲気が濃厚に漂っている。パリスのほぼ全裸の姿や、ヘレネが寄り添う柔らかな仕草、寝台や布地の描写は恋愛の甘美さを強く印象づける。しかしその甘美さは、鑑賞者が神話の結末を知っているからこそ、一層皮肉な意味を帯びる。二人が享受している幸福は一時的なものであり、その背後にはトロイアの滅亡、英雄アキレウスやヘクトルの死、多くの人々の犠牲という避けられない未来が潜んでいるのである。ダヴィッドは戦争そのものを描くことなく、その原因となる恋愛の静かな瞬間を描くことで、人間の情念が歴史を動かすという古代悲劇の本質を示している。
制作年代にも重要な意味がある。本作が完成した1788年、翌1789年のサロンに出品された時点はフランス革命前夜にあたり、宮廷文化がなお華やかさを保ちながらも社会には深刻な緊張が高まっていた時代であった。アルトワ伯爵自身、革命勃発直後の1789年7月にはいち早く亡命し、その所有していた本作を含む財産は亡命者財産として没収されるに至る。ダヴィッドは同時期からほどなくして、革命を象徴する画家として厳格な道徳的主題を扱う作品へと作風を大きく転換させてゆくが、『パリスとヘレネの恋』はその直前に描かれた神話画として位置づけられる。そのため、本作にはロココ的な優雅さへの名残と、新古典主義の厳格な造形理念とが共存しており、画家の作風が大きく転換する直前の貴重な到達点を見ることができる。なお、本作の評判の高さを物語る事実として、1789年にはポーランドの貴族イザベラ・チャルトリスカ=ルボミルスカ公妃の依頼により、ダヴィッド自身の手による複製が制作されており、これは現在パリ装飾美術館に所蔵されている。
参照:西洋美術史
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"
