

フョードル・ステパノヴィッチ・ロコトフ[ロシア語表記:Фёдор Степанович Рокотов, 英語表記:Fyodor Stepanovich Rokotov;c.1735/1808]が描いた『ゴリツィン公爵』は, ロシア18世紀後半における肖像画芸術の成熟を端的に示す作品である.制作は1760年代と推定され, 当時宮廷画家としての声望を高めつつあったロコトフが, その特徴的な柔和で内省的な画風を確立しつつあった時期に属する.
モデルとなったゴリツィン公爵は, ロシア帝国の名門貴族ゴリツィン家[House of Golitsyn]の一員である.ゴリツィン家は古くからロシア政治史において重要な役割を果たし, 外交, 宮廷官職, 軍務など多様な分野で高位を占め続けた家柄である.ロコトフが肖像を描いた人物は, 帝国宮廷の文化的・政治的中心に位置した教養深い貴族であり, 知的洗練を備えた人物像として当時の上流社会における理想像を体現していた.この背景が, 肖像に漂う高貴さと内面の深みを一層際立たせている.
本作最大の特徴は, モデルの内面を掬い取るような静謐な表情描写である.ロコトフは眼差しに特別な注意を払い, 微細な光の反射と緩やかな陰影を重ねることで, 思索的でありながら柔らかな感受性を宿した視線を創出している.瞳は観者と静かに対話するかのように描かれつつも, やや内方へ沈むような奥行きを持ち, 人物の精神的深度を象徴している.
肌の描写はロコトフ特有の軽やかな筆致により, 粉雪のような柔らかな光を帯びている.肌理の細やかさは官能性に傾くことなく, 気品ある清澄さを保ちながら血色の変化を巧みに捉えている.輪郭線を強調せず光と影の境界を曖昧にすることで, 人物が背景からふわりと浮かび上がるような独特の立体感が生まれている.この柔らかなモデリングはロコトフの代表的技法であり, 同時代ロココ肖像画との親和性を示しつつも, ロシア独自の抒情性を帯びている.
衣服の表現は過度な装飾性を排し, 人物の精神性を主題として際立たせるよう構成されている.布地の重さや光の当たり具合が丁寧に描き分けられているが, 細部を写実的に描くよりも, 人物そのものの存在感を損なわない調和が重視されている.宮廷礼装の持つ格式は保ちつつも, 肖像全体の抒情的雰囲気を乱さない抑制された技法が採用されている.
背景は暗く静まり返った色調で構成され, 余計な情報を排して人物像を前景化させている.ロコトフは背景に象徴的モチーフや道具類をほとんど置かず, 人物の精神性のみを画面に留める手法を好んだ.本作もその典型であり, モデルと鑑賞者の間に直截的な心理的距離が生まれている.
『ゴリツィン公爵』は, 貴族肖像画が単なる身分の証明ではなく, 個人の教養・知性・精神性を視覚化する表現形式へと移り変わる過程を示す重要作である.ロコトフはモデルの外貌の写実性とともに, その人物が持つ内的な気品を画面に凝縮することに成功し, 本作はその到達点の一つとして位置づけられる.静かだが深い感情を湛える表情, 柔らかい光が生む空気感, そして人物の精神性を中心に据える構成は, ロコトフがロシア肖像画史に刻んだ独自の様式を典型的に示すものである.
'Beauty is truth, truth beauty,'-that is all Ye know on earth, and all ye need to know.
John Keats,"Ode on a Grecian Urn"
