中国美術史

殷/商 Yīn/Shāng[1600BC-1046BC]

殷・商時代[前16世紀頃–前1046年]は, 中国美術史における最初の本格的な文明開花期である.殷・商王朝は, 南シベリアのアルタイ山脈[Алтайские горы]からハカス・ミヌシンスク盆地[Хакасия・Минусинская котловина]にかけて栄えた青銅器時代初期のアファナシエヴォ文化[Afanas'evo]との関連が一説として指摘されており, その担い手がアルタイ山脈・天山山脈・タリム盆地を経て中原へ移動したとも論じられる.殷は夏王朝を打倒して中原の支配を確立したとされるが, 夏王朝の実在性自体も史学上なお検証の途上にある.王朝末期, 暴君として名高い紂王帝辛[[Zhòu Wáng Dì Xīn]]の治世に, 牧野の戦いにおいて周の武王[Wǔ Wáng]に敗れ滅亡した.

この時代の美術を象徴するのは, 青銅器の卓越した鋳造技術であり, 鼎・爵・彝などの祭祀用礼器が大量に制作された.これらの青銅器には饕餮文と呼ばれる獣面文様が多用されており, 呪術的・宗教的な意味合いを強く持つ.造形は左右対称の厳格な構成を基本とし, 表面の文様は高度な浮彫技法によって表現された.また, 甲骨文字の刻まれた亀甲・獣骨は文字芸術の源流として重要な位置を占め, 玉器においても璧・琮などの形式が確立された.殷墟[現・河南省安陽]の発掘調査はこれらの造形文化の実態を明らかにした点で画期的であり, 全体として殷・商の美術は神権政治と密接に結びつき, 美と権威が一体となった造形世界を形成している.

周 Zhōu[1046BC-256BC]

周王朝[前1046年頃–前256年]は, 武王が牧野の戦いで殷を滅ぼして建国した王朝である.前771年, 幽王が犬戎の侵攻によって落命すると, 周室は鎬京を失い洛邑へ東遷した.これ以降を東周と呼び, 以前を西周と総称する.東周期は諸侯が覇を競う春秋時代[前770年頃–前403年頃]と, 下剋上が常態化する戦国時代[前403年頃–前221年]へと移行した.

この時代の美術は, 殷代の呪術的・神権的な造形様式から徐々に脱却し, より世俗的・人間的な表現へと移行していく過程をたどる.西周期の青銅器は殷代の饕餮文を継承しつつも, 長篇の銘文が器内に鋳込まれるようになり, 記録・記念的性格が強まった.春秋・戦国時代になると, 青銅器の文様は幾何学的・流動的な蟠螭文[ばんちもん]や宴饗・攻戦を描く象嵌技法へと転換し, 装飾性と叙述性が著しく高まった.また, 漆器・絹織物・玉器の精製が諸侯国の工房で盛んとなり, 地域ごとに多様な造形文化が花開いた.思想面では諸子百家の勃興が造形理念にも影響を与え, 礼楽思想に基づく器物の体系化が進んだ.周代の美術史は, 神への奉献から人間社会の秩序と美意識の表出へという, 中国美術の根本的な転換期として位置づけられる.

       

春秋・戦国時代 Chūnqiū shíqī[771BC-221BC]

春秋・戦国時代[前770年頃–前221年]は, 周王室の権威が形骸化し, 諸侯が覇を競った激動の時代である.戦国時代[前403年頃–前221年]は, 韓・魏・趙の三氏が晋を事実上解体・分割し, 周王室がこれを諸侯として正式承認したことに始まるとされる.東周として命脈を保っていた周王室もこの頃には一地方政権へと没落し, 前256年に秦によって滅ぼされた.その後, 前221年に秦の始皇帝が中国統一を完成させた.

この時代の美術は, 中国史上最も多様かつ躍動的な展開を示した時期として位置づけられる.青銅器においては, 殷・西周以来の重厚な祭祀様式から離れ, 蟠螭文・狩猟文・宴饗図・攻戦図などの写実的・叙述的文様が流行した.金・銀・トルコ石を嵌め込む象嵌技法が高度に発達し, 器物の装飾性は頂点に達した.漆器は楚をはじめとする南方諸国で著しく発展し, 朱・黒を基調とした流麗な文様が施された椀・匣・屏風などが制作された.絹織物の技術も精緻化し, 文様織・刺繍の高い水準が湖南省長沙の楚墓出土品によって確認される.玉器は依然として礼制と結びつきながらも, 装身具としての性格を強め, 透かし彫り技法が洗練された.諸子百家の思想的多様性は造形理念にも反映され, 各国固有の美意識が地域色豊かな美術を生み出した時代として, 周代美術史の白眉をなす.

秦 Qín[221BC-207BC]

秦王朝[前221年–前206年]は, 始皇帝による中国初の統一王朝であり, その治世はわずか15年に過ぎないが, 美術史上きわめて重大な転換点をなす.統一に伴い, 度量衡・文字・貨幣の標準化が断行され, 視覚文化の均質化が中国全土に及んだ.この時代の美術を最も雄弁に物語るのは, 1974年に発見された始皇帝陵の兵馬俑坑であり, 実物大の陶製兵士・馬・戦車が8000体以上にわたって埋納された空前絶後の造形事業である.個々の俑は顔貌・髪型・甲冑の細部に至るまで写実的に表現されており, 量産でありながら個体差を持つ高度な制作体制が敷かれていたことが明らかである.建築においては, 咸陽宮・阿房宮などの巨大宮殿群が造営され, 天下統一の権威を空間的に体現した.瓦当[がとう]や建築装飾にも精緻な文様が施され, 建築付属美術が高い水準に達した.金属工芸では, 六国から没収した青銅兵器を鋳潰して鐘・鐻などに改鋳したと伝えられ, 武から礼楽への転換を象徴する.秦の美術は, 個人の信仰や地域の美意識よりも国家権力の可視化を最優先とした, 徹底して政治的な造形世界を形成している.

漢 Hàn[202BC-220AD]

劉邦が紀元前202年に項羽を垓下の戦いで破って打ち立てた王朝.前漢[紀元前206年-8年]と劉秀によって再興された後漢[25年-220年]に分けられる.この時代は, 中国美術史において秦の厳格な国家主義的造形から脱却し, より豊饒で多層的な視覚文化が開花した時代である.儒教の国教化[前漢・武帝期]は美術の主題と形式に深く影響を与え, 礼制に基づく器物の体系化が再び重視された.

陵墓美術がこの時代の造形の中核をなし, 墓室を彩る壁画・画像石・画像磚[がぞうせん]には, 神仙思想・昇仙図・歴史故事・日常生活の情景が生き生きと描かれた.河南省・山東省・四川省などの画像石は, 漢代人の宇宙観と死生観を視覚化した一大図像体系をなす.副葬品においては, 前漢中山靖王墓出土の金縷玉衣[きんるぎょくい]に象徴されるように, 玉器への信仰が不死・昇仙の観念と結びついて頂点に達した.漆器は引き続き高い水準を保ち, 長沙馬王堆漢墓出土品はその精華として名高い.絵画史上, 帛画[はくが]の発達は特筆すべきであり, 馬王堆出土のT字形帛画は現存最古級の絵画遺品として重要である.青銅器は礼器としての比重を減じる一方, 博山炉[はくさんろ]に代表される精巧な日用工芸品へと展開した.漢代の美術は, 天上・人間・冥界を一つの造形世界に統合した, 中国美術史上最も壮大な宇宙論的表現の時代として位置づけられる.

三国時代 Three Kingdoms[220-280]

後漢の滅亡[220年]から晋による天下再統一[280]まで.三国時代[220年–280年]は, 漢王朝の解体後に魏・呉・蜀漢の三国が鼎立した動乱の時代であり, その短さゆえに独自の美術様式を完成させるには至らなかったものの, 漢代から六朝・隋唐へと至る造形文化の過渡期として重要な位置を占める.

魏においては, 曹操が薄葬令を発して厚葬の風を禁じたため, 漢代に頂点を極めた陵墓美術は大きく後退した.しかしこの方針は逆説的に, 地上の建築・工芸・書画芸術への関心を高める契機ともなった.書においては, 鍾繇[しょうよう]が楷書の祖として名を残し, 漢代の隷書から楷書・行書への移行を決定的に推進した点は書道史上画期的である.呉においては, 江南の豊かな物産を背景に漆器・陶磁器の生産が継続・発展し, 特に青磁の技術的洗練が進んだ.越州窯系の青磁はこの時期に質的な向上を遂げ, 後世の中国陶磁史に連なる重要な礎を築いた.蜀漢においては, 四川の伝統的工芸技術が継承され, 漆器・織錦の生産が維持された.

人物画においては, 顧愷之[こがいし]に先行する画家たちの活動が記録されており, 宗教・説話を主題とする絵画の素地が形成されつつあった.三国時代の美術は, 漢代の宇宙論的壮大さを継承しつつも, 個人の精神性と技芸の洗練へと向かう中国美術史の新たな潮流の萌芽をなす時代として評価される.

六朝時代 Six Dynasties[222-589]

六朝とは, 呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六王朝を指す概念であり, いずれも建康[現・南京]を都とした点が共通する.

六朝時代[222年–589年]は, 政治的分裂と民族移動の激動を背景としながら, 中国美術史上最も精神的・哲学的な深化を遂げた時代として位置づけられる.仏教の本格的浸透と道教の体系化, そして玄学[老荘思想の再興]が造形文化の根幹に深く浸透し, 美術の主題と様式を根本から変容させた.

絵画においては, 東晋の顧愷之[こがいし]が「伝神写照」の理念を提唱し, 人物の外形ではなく内面の精神を描くことを絵画の本義とした.現存模本ながら「女史箴図」「洛神賦図」はその精華として名高く, 衣紋の流麗な線描と人物の気韻生動は後世の中国絵画の規範となった.謝赫[しゃかく]は「古画品録」において気韻生動・骨法用筆をはじめとする「六法」を提唱し, 中国絵画批評の理論的基礎を確立した.

書においては, 王羲之[おうぎし]・王献之[おうけんし]父子が活躍し, 王羲之は「蘭亭序」によって行書の至高の表現を達成, 「書聖」として後世に仰がれた.六朝の書は楷・行・草の三体を完成へと導き, 書を独立した芸術として確立した点で書道史上の頂点をなす.

仏教美術においては, 雲崗・龍門石窟の開鑿が北朝において進められる一方, 江南でも建康を中心に多数の寺院・仏像が造営された.東晋・南朝の仏像は, 玄学的・清談的な美意識を反映した「秀骨清像」様式を特徴とし, 細身で精神性の高い表現を示す.

陶磁においては越州窯の青磁が引き続き発展し, 器形・釉薬の洗練が著しく進んだ.副葬用の陶製明器には, 鶏首壺・蓮花尊など六朝独自の器形が登場し, 仏教的図像と在来の神仙思想が融合した装飾が施された.

六朝時代の美術は, 国家権力の可視化よりも個人の精神・気韻・宇宙との合一を造形の究極目標とした点において, 中国美術史上もっとも内省的かつ哲学的な時代として, 唐代の国際的爛熟へと橋渡しする不可欠の時代をなす.

東晋/五胡十六国 Jin/Sixteen Kingdoms[266-420]

東晋・五胡十六国時代[304年–439年]は, 華北において匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五胡と漢族が相次いで興亡する十六国を建てた時代であり, 漢族王朝の東晋が江南に命脈を保った南北並立の時代である.具体的には, 匈奴による前趙・夏・北涼, 鮮卑による前燕・後燕・南燕・南涼・西秦, 羯による後趙, 氐による前秦・後涼, 巴氐系李氏による成漢, 羌による後秦, 漢族による前涼・冉魏・西涼・北燕といった諸政権が華北に割拠・興亡を繰り返した.政治的混乱の極みにあったこの時期は, 一見美術の衰退期と映りがちであるが, 実際には北方遊牧民族の造形文化と漢族の伝統美術が激しく交錯・融合した, 中国美術史上類例のない多元的創造の時代として評価される.

北方十六国においては, 各政権の短命さゆえに大規模な宮廷美術の蓄積は困難であったが, 仏教美術の伝播と定着において決定的な役割を果たした.五胡諸族は漢族の儒教的礼制に束縛されることなく仏教を積極的に受容し, 敦煌莫高窟の開鑿はこの時期[366年]に始まる.初期莫高窟の壁画は, 西域・インド・ガンダーラの図像様式と漢族の線描技法が混交した独自の様式を示し, のちの北魏様式への道を開いた.涼州[現・甘粛省武威]は西域文化の集積地として機能し, 仏教図像・音楽・工芸技術の東伝における重要な中継点をなした.前秦の苻堅[ふけん]は一時的に華北を統一し, 仏図澄[ぶっとちょう]・道安[どうあん]・鳩摩羅什[くまらじゅう]らの仏僧を庇護して仏典翻訳・仏教美術の普及に大きく貢献した.

遊牧民族固有の動物文様・金属工芸もこの時代に華北へ持ち込まれ, 騎馬民族的な帯金具・馬具・武器装飾が漢族の工芸技術と融合した.金・銀・瑪瑙・ガラスを用いた装身具は北方的な豪壮さを示し, シルクロードを経由した西方工芸の影響も色濃く反映している.

東晋においては, 顧愷之の絵画・王羲之の書が開花した時代であり, 江南の貴族文化を基盤とした清雅な美意識が醸成された.玄学・清談の流行は自然山水への審美的関心を高め, 山水画の萌芽的表現が絵画に現れ始めた時期でもある.宗炳[そうへい]は「画山水序」を著し, 山水を観想の対象として絵画化する理念を初めて体系的に論じた点で絵画史上重要である.

この時代の美術史的意義は, シルクロードを介した西方・中央アジア・インドの造形文化が中国美術に本格的に流入した最初の大波として位置づけられる点にある.五胡の異文化と漢族の伝統, そして仏教という新たな造形原理の三者が交錯したこの時代は, 北魏・隋唐の国際的美術様式を準備した, 中国美術史上不可欠の多元的基盤をなしている.

南北朝時代 Northern and Southern dynasties[420-589]

南北朝時代[439年–589年]は, 鮮卑拓跋部の太武帝[拓跋燾]が五胡十六国の割拠した華北を統一した439年から, 隋が中国を再統一する589年までの時代である.北方では北魏が東魏・西魏に分裂し, それぞれ北斉・北周へと移行した.江南では劉裕が東晋から禅譲を受けて宋を建国したことに始まり, 斉・梁・陳と続いた南朝四国が建康を都として命脈を保った.その後, 北周に取って代わった隋が589年に陳を滅ぼして中国を再統一した.

この時代の美術は, 仏教美術の爛熟と漢族・鮮卑族の造形文化の融合を最大の特徴とする.北魏においては, 雲崗石窟[460年頃開鑿]・龍門石窟[493年頃開鑿]が造営された.雲崗初期の仏像は, ガンダーラ・西域様式を色濃く反映した量感豊かな造形を示すが, 孝文帝の漢化政策[485年以降]を経て龍門期には「秀骨清像」と称される細身・清雅な中国的仏像様式が確立された.この様式転換は中国仏教彫刻史上最も重要な変容の一つとして位置づけられる.敦煌莫高窟においても北魏・西魏・北周各期の壁画が継続的に制作され, 説話図・本生図・飛天の表現が洗練されていった.

東魏・北斉においては, 曹仲達[そうちゅうたつ]に代表される「曹衣出水」様式が成立した.湿った衣が身体に貼り付いたように見えるこの表現はインド・グプタ朝彫刻の影響を受けたものであり, 西方造形の継続的流入を示している.西魏・北周においては敦煌壁画の制作が継続し, 色彩・構図の洗練が進んだ.

南朝においては, 江南貴族文化の精華として絵画・書・工芸が高度に発展した.画家として張僧繇[ちょうそうよう]が活躍し, 「没骨法」と呼ばれる輪郭線を用いない描法を開拓した.書においては王羲之の伝統が南朝貴族の間で継承・発展し, 梁の武帝は書画収集に熱心で宮廷文化の洗練を促した.越州窯の青磁は引き続き発展を遂げ, 器形・釉薬の精緻化が著しく進んだ.

南北朝時代の美術史的意義は, インド・西域・北方遊牧民族・漢族の造形伝統が重層的に交錯・統合され, 隋唐の国際的・普遍的美術様式を準備した点にある.仏教という共通の造形原理のもとで南北の美術が相互に影響を及ぼしたこの時代は, 中国美術史上最も豊饒な多文化的創造の時代として評価される.

 

隋 Suí[581-618]

隋王朝[581年–618年]は, 北周の外戚で,漢族,もしくは,普六茹氏出身の楊堅[文帝]が禅譲を受けて建国し, 589年に陳を滅ぼして約370年ぶりに中国を再統一した王朝.第2代皇帝・煬帝は高句麗遠征の失政によって叛乱の最中に自害.隋は短命に終わった.その治世はわずか37年に過ぎないが, 南北朝の分裂期に蓄積された多様な造形伝統を統合し, 唐代の爛熟した国際的美術様式への橋渡しをなした点で, 中国美術史上きわめて重要な過渡期をなす.

仏教美術においては, 文帝が仏教を国家統合の理念として積極的に活用し, 全国に舎利塔の建立を命じた.これにより仏教建築・彫刻の需要が一挙に高まり, 南北朝以来の地域的様式が統合される契機となった.隋代仏像は, 北斉の「曹衣出水」様式と南朝の「秀骨清像」様式を融合しつつ, より量感豊かで均整のとれた新様式へと移行した.体躯は丸みを帯びて安定感を増し, 衣紋表現は簡潔化され, 唐代仏像の豊満な様式を予告するものとなった.敦煌莫高窟においても隋代窟が多数造営され, 壁画の構図・色彩・図像の多様性と精緻さが著しく向上した.

建築においては, 大興城[現・西安]の造営が文帝のもとで断行され, 整然たる条坊制に基づく都城計画が実現した.この大興城の都市設計は唐の長安城へと継承され, 東アジア都城建築の規範となった.煬帝は洛陽に東都を造営するとともに大運河を開削し, 南北の物資・文化の流通を飛躍的に促進した.この運河網は江南の工芸品・美術品を北方へ輸送する動脈として機能し, 南北の造形文化の統合を物質的に支えた.

絵画においては, 展子虔[てんしけん]が活躍し, 現存最古の山水画とされる「游春図」を制作したとされる.この作品は青緑山水の様式を示し, 人物に対して山水が主体的な画面構成を持つ点で, 山水画史上の画期をなす.展子虔の様式は唐代の李思訓・李昭道父子による青緑山水の直接的な源流となった.

工芸においては, 白磁の技術的完成がこの時代の最大の成果として挙げられる.河北省邢窯を中心に純白で緻密な白磁が生産され, 後世の景徳鎮白磁・青花磁器へと連なる中国陶磁史上の革新をもたらした.金属工芸・染織においても南北朝の技術を統合した高い水準が維持された.

隋代の美術は, 短命ながら南北朝の多元的造形遺産を一つの統合された視覚言語へと昇華させた時代であり, 東アジア全域に波及する唐代国際様式の直接的な母胎をなしている.

唐 Táng[618-907]

唐王朝[618年–907年]は, 西魏・北周より続く鮮卑系武川鎮軍閥出身の李淵が隋を倒して建国した王朝である.唐王室の祖は北魏の武川鎮軍人・李初古抜に遡るとされ, 隋・唐はともに鮮卑系軍閥を基盤とした胡漢融合政権として位置づけられる.630年, 太宗[李世民]は東突厥を破り, 周辺諸族から天可汗と称されて東アジアの覇者となった.690年には則天武后が周[武周, 690年–705年]を打ち立て一時的に唐王朝が中断した.武后退位・崩御後に実権を握った韋后と安楽公主を, 中宗の甥にあたる睿宗の子・隆基[玄宗]が暗殺し, 睿宗を復位させた.この武則天による専権と韋后による専権を合わせて武韋の禍と総称する.玄宗の治世前半は開元の治と称される最盛期を現出したが, 755年の安史の乱以降, 唐は急速に衰退した.875年に黄巣の乱が勃発し, 節度使・朱全忠によって907年に滅ぼされた.

唐代の美術は, 中国美術史上最も国際的・開放的な爛熟期として位置づけられる.長安は人口百万を超える世界最大の都市として, ソグド人・ペルシア人・インド人・日本人・朝鮮人が往来する真の国際都市を現出し, この多文化的環境が唐代美術の根本的な性格を規定した.

仏教美術においては, 玄奘[げんじょう]のインド求法[629年–645年]を契機として仏典翻訳・図像研究が飛躍的に深化した.敦煌莫高窟では初唐・盛唐・中唐・晩唐の各期にわたって壁画が継続的に制作され, 浄土変相図・千手観音図など大画面の説話図像が壮麗に展開した.彫刻においては龍門石窟の奉先寺大仏[672年–675年造営]が唐代仏教彫刻の頂点をなし, 豊満・温雅な様式は則天武后の帰依のもとで完成された.

絵画においては, 閻立本[えんりゅうほん]が太宗・高宗期に宮廷画家として活躍し, 「歩輦図」「凌煙閣功臣図」などの人物・肖像画を制作した.盛唐には呉道子[ごどうし]が「呉帯当風」と称される動勢豊かな線描で仏教壁画・人物画に革新をもたらし, 「画聖」として後世に仰がれた.山水画においては李思訓・李昭道父子が青緑山水を大成し, 王維[おうい]が水墨による詩情豊かな山水表現を開拓して「南宗画」の祖と位置づけられた.張萱[ちょうけん]・周昉[しゅうぼう]は宮廷女性を主題とした仕女図を制作し, 豊満な美人表現は盛唐の美意識を典型的に体現している.

書においては, 初唐の欧陽詢[おうようじゅん]・虞世南[ぐせいなん]・褚遂良[ちょすいりょう]が楷書の規範を確立し, 盛唐の顔真卿[がんしんけい]が雄渾・豊満な「顔体」を大成して王羲之以来の書の伝統に新たな頂点を加えた.張旭[ちょうきょく]・懐素[かいそ]は草書を芸術的極致へと導いた.

工芸においては, 唐三彩[とうさんさい]が葬送美術の中核として発展した.鉛釉を用いた緑・褐・白を基調とする多彩な陶器は, 駱駝・馬・胡人俑など西域的主題を豊富に含み, シルクロード文化の受容を如実に示している.金銀器においてはソグド・ササン朝ペルシアの影響を受けた高浮彫・連珠文様の杯・盤が制作され, 西方工芸との交流の深さを物語る.染織においては緯錦[ぬきにしき]技術が中央アジアから導入され, 正倉院所蔵の染織品はその精華を今日に伝えている.

唐代の美術は, 中国在来の造形伝統とシルクロードを介した西方・中央アジア・インドの造形文化が最も豊かに融合した時代であり, その成果は遣唐使を通じて日本の天平文化にも深く影響を与えた.唐代の造形的達成は, その後の宋・元・明・清各代の美術の基準点として, 中国美術史の黄金時代として永く仰がれている.

五代十国 Five Dynasties and Ten Kingdoms[907-979]

五代十国時代[907年–960年]は, 唐の滅亡から北宋の建国までの約半世紀にわたる分裂期である.華北では朱全忠が建国した後梁[907年–923年]に始まり, 突厥系沙陀部族の李克用の子・李存勗による後唐[923年–936年], 後晋[936年–946年], 後漢[947年–950年], 郭威が建国した後周[951年–960年]と続き, 後周の趙匡胤が禅譲を受けて北宋を建国した.華北以外では, 呉・南唐・呉越・前蜀・後蜀・南漢・南平[荊南]・楚・閩・北漢の十国が各地に割拠した.

五代十国時代の美術は, 政治的混乱にもかかわらず, 唐代の造形的遺産を継承・深化させた重要な過渡期として評価される.この時代の美術史的意義は特に絵画・陶磁器において顕著である.

絵画においては, この時代に中国絵画史上の巨匠が相次いで輩出した.南唐[江南]においては, 董源[とうげん]が江南の湿潤な山水を披麻皴[ひましゅん]と呼ばれる柔らかな筆法で描き, 北方の硬質な山水表現とは異なる穏やかな山水様式を確立した.その弟子・巨然[きょねん]とともに「董巨様式」を形成し, 後世の文人山水画の根幹をなす南宗山水の直接的源流となった.後蜀・南唐の宮廷においては, 花鳥画が独立した絵画ジャンルとして確立された.黄筌[こうせん]は後蜀宮廷において精緻な「勾勒填彩」技法による写実的花鳥画を大成し, 「黄家富貴」と称される格調高い様式を確立した.一方, 南唐の徐熙[じょき]は「落墨法」と呼ばれる墨の骨格を重視した野趣豊かな花鳥表現を開拓し, 「徐家野逸」と対比された.この黄・徐二様式の対立は, 北宋以降の花鳥画史を規定する根本的な様式対立となった.人物画においては, 南唐の顧閎中[ここうちゅう]が「韓熙載夜宴図」を制作し, 宮廷貴族の宴席を精緻に描いた傑作として名高い.

陶磁においては, 五代期に各地の窯が技術的洗練を深めた.越州窯の青磁は「秘色[ひしょく]」と称される深みある青緑の釉色を実現し, 五代の呉越国王が宮廷用・外交用として珍重した.北方では邢窯・定窯の白磁が引き続き発展し, 定窯は五代期に象牙色の温雅な白磁を完成させて北宋官窯への道を開いた.柴窯[さいよう]は後周の世宗が設けたとされる伝説的な官窯であり, 「雨過天青」と称される青磁を焼成したと伝わるが, 現存品の確認は困難である.

書においては, 楊凝式[ようぎょうしき]が五代を通じて活躍し, 王羲之・顔真卿の伝統を独自に消化した奔放な書風を示した.その革新的な書風は北宋の蘇軾・黄庭堅らに多大な影響を与え, 宋代尚意書法の先駆をなした.

五代十国時代の美術は, 唐代の国際的爛熟から宋代の内省的・文人的美意識への転換を準備した時代として位置づけられる.

宋 Sòng[960-1279]

宋王朝[960年–1279年]は, 趙匡胤が後周から禅譲を受けて建国した北宋[960年–1127年]と, 金によって華北を追われて以降の南宋[1127年–1279年]に区分される.1127年, 女真族の金が猛安謀克制を基盤とした強大な軍事力をもって華北を制圧し, 徽宗・欽宗の二帝を拉致した靖康の変によって北宋は事実上滅亡した.南宋は臨安[現・杭州]を都として江南に存続したが, 1279年の崖山の戦いにおいて元軍に敗れ, 陸秀夫が幼帝昺を抱いて入水崩御したことをもって完全に滅亡した.

宋代の美術は, 唐代の国際的・開放的な爛熟から転じて, 内省的・精神的・文人的な美意識が中心に据えられた時代として中国美術史上特筆される.武断よりも文治を重んじる宋の国家理念は, 士大夫・文人層の文化的発言力を著しく高め, 造形芸術のあらゆる分野に深い影響を与えた.

絵画においては, 北宋に翰林図画院が整備され, 宮廷絵画が高度に組織化された.范寛[はんかん]・李成[りせい]・郭熙[かくき]は北方山水画の三大家として, 雄大な全景山水の様式を大成した.范寛の「谿山行旅図」は巨大な山容を正面から捉えた記念碑的構図を示し, 北宋山水画の頂点として名高い.郭熙は「林泉高致」を著し, 山水画の理念と技法を体系的に論じた最初の本格的画論として重要である.徽宗[在位1100年–1125年]は自ら「院体」の精緻な花鳥画・山水画を制作した稀代の芸術家皇帝であり, 「芙蓉錦鶏図」「桃鳩図」は宋代院体花鳥画の精華をなす.徽宗はまた「瘦金体」と称される独自の書体を確立し, 書史上にも名を残した.

南宋に入ると, 李唐・馬遠・夏珪・劉松年の「南宋四大家」が活躍した.马遠・夏珪は画面の一隅に景物を配する「馬夏様式」[辺角構図]を確立し, 余白を大きく取った詩情豊かな山水表現は禅の美意識と深く共鳴した.この様式は日本の水墨画に決定的な影響を与えた.

文人画においては, 蘇軾[そしょく]・米芾[べいふつ]・李公麟[りこうりん]らが職業画家の技巧よりも士大夫の人格・学識・精神の表現を絵画の本義とする理念を提唱した.米芾は「米点皴[べいてんしゅん]」と呼ばれる横点を積み重ねた独自の山水表現を開拓し, 文人山水の重要な様式的源流となった.李公麟は白描[はくびょう]技法を大成し, 色彩を排した墨線のみによる人物・馬の表現に卓越した.

書においては, 蘇軾・黄庭堅[こうていけん]・米芾・蔡襄[さいじょう]の「宋四家」が, 唐代の楷書規範への従属から脱して個性的な表現を重んじる「尚意書法」を標榜した.この姿勢は書を自己表現の媒体として捉える近世的書道観の確立として重要である.

陶磁においては, 宋代が中国陶磁史の黄金時代をなす.汝窯・官窯・哥窯・鈞窯・定窯の「宋五大名窯」がそれぞれ独自の美を極めた.汝窯は北宋末期に宮廷御用として焼成された天青色の青磁であり, その寡少な現存品は今日最高の評価を受ける.景徳鎮では青白磁[影青]が生産され, 後世の青花磁器への道を開いた.民窯においても磁州窯の鉄絵文様・建窯の天目釉など, 各地固有の個性豊かな陶磁が展開した.

宋代の美術は, 技術的精緻さと精神的深度を高次元で統合し, 文人的美意識・禅的簡潔さ・院体的写実性が複層的に共存した時代として, 中国美術史上最も成熟した造形世界を形成している.

元/大元ウルス Yuan[1271-1368]

元[大元ウルス, 1271年–1368年]は, チンギス・ハーンが打ち立てたモンゴル帝国の第5代大ハーン・フビライが1271年に建号した征服王朝である.1276年に南宋の都・臨安を陥落させ, 1279年の崖山の戦いをもって中国全土を統一した.1351年に紅巾の乱が勃発し, 朱元璋が政権を奪取して明を建国したことでモンゴル高原に撤退し, 北元として存続した.北元の大ハーン・トクズ・テムルは1388年に明の藍玉率いる遠征軍に敗北し, その後の内紛によって殺害された.その後, 韃靼と呼ばれたモンゴル人[タタール部]は15世紀末にダヤン・ハンが再統一し, その孫のアルタン・ハンが明に侵攻を繰り返すこととなった[北虜南倭].

元代の美術は, モンゴル支配という異民族征服王朝のもとで, 漢族士大夫文化が政治的疎外を逆説的な契機として内面的・精神的な深化を遂げた時代として, 中国美術史上きわめて重要な転換期をなす.科挙制度の一時的廃止により仕官の道を閉ざされた漢族知識人の多くが在野に下り, 絵画・書・詩の三位一体的表現としての文人芸術を飛躍的に発展させた.

絵画においては, 趙孟頫[ちょうもうふ]が元代美術の中心的存在として突出する.宋王室の末裔でありながら元朝に仕えた趙孟頫は, 「古意[こい]」の復興を提唱し, 唐・北宋の古典様式への回帰を通じて院体の形式主義と南宋末期の因習的表現を批判した.書画一致論を唱え, 絵画における書法的筆墨の重視という文人画の根本理念を明確に定式化した点で, 後世への影響は計り知れない.書においても楷書・行書・草書の各体に卓越し, 「趙体」として後世に規範的影響を与えた.

元代山水画においては, 黄公望[こうこうぼう]・呉鎮[ごちん]・倪瓚[げいさん]・王蒙[おうもう]の「元四家」が文人山水の最高峰を形成した.黄公望の「富春山居図」は長巻山水の傑作として中国絵画史上最も名高い作品の一つであり, 披麻皴を基調とした乾筆の筆墨表現は後世の文人山水の規範となった.倪瓚は極度に簡潔な「折蘆皴[せつろしゅん]」と三段構図によって, 人気[じんき]を排した孤高の境地を示し, 「逸品」の典型として明清文人画家に深く仰がれた.

花鳥画においては, 銭選[せんせん]が宋代院体の精緻な写実を継承しつつ古拙な趣を加えた独自様式を示し, 趙孟頫の古意論と共鳴した.竹・蘭・梅・菊の「四君子」を墨のみで描く墨竹・墨蘭の表現がこの時代に大きく発展し, 書法的筆墨と絵画的表現の融合を体現するジャンルとして確立された.

陶磁においては, 景徳鎮窯が元代に飛躍的な技術的革新を遂げた.コバルト顔料による青花[染付]磁器がこの時代に本格的に成立し, 白地に藍の文様を施す様式は後世の中国・東アジア・イスラーム世界の陶磁に決定的な影響を与えた.また釉裏紅[ゆうりこう]・卵白釉[らんぱくゆう]など新たな釉薬技術も開発され, 景徳鎮の世界的陶磁生産の覇権はこの時代に確立されたといえる.

工芸においては, モンゴル宮廷の需要を背景に金属工芸・漆工芸が発展した.彫漆[ちょうしつ]技術が頂点に達し, 張成・楊茂らによる精緻な堆朱[ついしゅ]作品が制作された.織物においてはモンゴル宮廷が珍重したナスィジュ[金錦]など中央アジア系の織物技術が導入され, 東西の染織文化が融合した.

元代の美術は, 政治的抑圧という逆境のもとで文人的精神性が極度に純化され, 書画一致・詩書画三絶の理念が完成した時代として, 明清文人画の直接的な母胎をなしている.同時にモンゴルの世界帝国的ネットワークを通じた東西文化交流が青花磁器に象徴される新たな造形言語を生み出した点において, 中国美術史上最も創造的な転換期の一つとして位置づけられる.

   

明 Ming[1368-1644]

明王朝[1368年–1644年]は, 朱元璋[太祖洪武帝]がモンゴルの元を北方に駆逐して建国した漢民族王朝である.17世紀に入ると, ヌルハチが統一した女真族[満洲族]が後金を建国[1616年]し, ホンタイジが国号を清と改めて[1636年]明への圧力を強めた.明は清の侵攻に加え, 内部の党争・財政悪化・農民反乱が複合して急速に衰退し, 1644年に李自成の反乱軍が北京を占領したことで事実上滅亡した.その後も南明政権が抵抗を続けたが, 1662年の永暦帝の死をもって完全に滅亡した.

明代の美術は, 漢民族王朝の復興という政治的理念のもとで, 宋・元の造形的遺産を継承・発展させながら, 新たな市民的・商業的文化の台頭によって多層的な展開を示した時代として位置づけられる.

絵画においては, 宮廷絵画・浙派・呉派・独自様式の諸潮流が並立した.宮廷においては南宋院体の伝統を継承した画院が整備され, 戴進[たいしん]に始まる浙派が力強い筆墨と劇的な構図をもって勢力を振るった.これに対し, 蘇州を拠点とした沈周[しんしゅう]・文徴明[ぶんちょうめい]・唐寅[とういん]・仇英[きゅうえい]の「呉派四家」は元四家の文人山水を継承し, 詩書画三絶の理念のもとに格調高い文人画を展開した.沈周・文徴明は特に元の黄公望・倪瓚の様式を深く内面化し, 明代文人画の基準を確立した.唐寅は仕女図・山水画いずれにも卓越し, 仇英は精緻な界画・仕女図によって院体と文人画の橋渡しをなした.

16世紀後半には董其昌[とうきしょう]が登場し, 絵画を「南宗」と「北宗」に二分する南北宗論を提唱した.王維に始まる南宗[文人画の系譜]を正統とし, 李思訓に始まる北宗[院体・職業画家の系譜]を傍流と位置づけるこの理論は, 中国絵画史観を根本的に規定し, 清代文人画の理論的基盤となった.董其昌自身も古典様式を独自に再解釈した山水画を制作し, 「松江派」を形成した.

書においては, 祝允明[しゅくいんめい]・文徴明・王寵[おうちょう]らが呉派文化圏で活躍し, 行草書の多様な展開を示した.董其昌は書においても晋唐の古典に遡る「淡雅」な様式を確立し, 明末清初の書道に決定的影響を与えた.

陶磁においては, 景徳鎮官窯が明代を通じて最高水準の磁器を生産した.永楽・宣徳期[15世紀前半]には青花磁器が頂点に達し, 鄭和の南海遠征がもたらしたイスラーム世界のコバルト[蘇麻離青]を用いた深みある発色は「宣青」として後世に珍重された.成化期[15世紀後半]には「闘彩[とうさい]」と呼ばれる青花と上絵付けを組み合わせた技法が確立され, 「成化鶏缸杯」は中国陶磁史上最高の評価を受ける作品の一つである.嘉靖・万暦期には五彩磁器が隆盛し, 色彩豊かな多彩様式が輸出陶磁として東南アジア・ヨーロッパにも流通した.

工芸においては, 漆工芸・金属工芸・染織が高度な水準を維持した.彫漆・堆朱の技術は宮廷工房において精緻化され, 景泰藍[けいたいらん]と呼ばれる七宝焼の技術がこの時代に確立・普及した.染織においては南京・蘇州の織物産業が繁栄し, 緞子・綴れ織の精巧な技術が発展した.

明代後期には商業経済の発展と市民層の台頭を背景に, 版画・挿絵本の出版文化が急速に発展した.「十竹斎画譜」「芥子園画伝」に代表される木版多色刷りの画譜は, 絵画技法の普及と様式伝播に大きく貢献した.また奇石・盆栽・古器物の鑑賞文化が士大夫層に広まり, 文房具・古玩の審美的評価が体系化された文人趣味の物質文化が開花した.

明代の美術は, 漢民族文化の復興という理念のもとで古典的秩序を重んじながらも, 市民経済の活況が生み出した多様な需要によって絵画・工芸・出版の各分野に豊かな展開をもたらした時代であり, 清代美術へと連なる造形的・理論的遺産を豊かに蓄積した時代として評価される.

清 Qing[1644-1912]

清王朝[1644年–1912年]は, ツングース系の女真族[満洲族]による征服王朝である.ヌルハチが打ち立てた後金は, 第2代のホンタイジ[満洲語:スレ・ハン, モンゴル語:セチェン・ハン]の代に内モンゴルのチャハル部への征服戦を開始し[1632年], 征服戦の最中にチャハル部のリンダン・ハン[林丹汗]が病死[1634年]するとモンゴル人勢力は瓦解した.1636年に後金は国号を清に改め, 1644年には李自成が北京を放棄して撤退した後, 呉三桂ら明の降将との連合によって李自成勢力を駆逐しつつ北京に入城した.17世紀末から18世紀の康熙帝・雍正帝・乾隆帝の三代が清朝の最盛期をなす.

清代の美術は, 満洲族による征服王朝という政治的枠組みのもとで, 漢族の伝統的造形文化を積極的に継承・庇護しながら, 宮廷の国際的趣味と在野の個性的表現が並立した多層的な展開を示した時代として位置づけられる.

絵画においては, 明代董其昌の南北宗論を受け継いだ正統派文人画の系譜が清代を通じて主流をなした.王時敏[おうじびん]・王鑑[おうかん]・王翚[おうき]・王原祈[おうげんき]の「四王」は元四家・董其昌の様式を精緻に継承・集大成し, 宮廷および士大夫社会における正統的山水画の規範を確立した.しかしその反面, 古典様式の模倣に終始するという批判も免れず, 清代正統派絵画の限界としてしばしば指摘される.

これに対し, 明清交替の政治的激動のなかで出家・隠遁した遺民画家たちが, 在野において強烈な個性的表現を展開した.八大山人[はちだいさんじん, 朱耷]は明王室の末裔として清朝への激しい抵抗を凝縮した孤高の墨法を示し, 魚・鳥・石を簡潔な筆墨で描いた作品は「白眼で世を睨む」と評される独特の精神性を帯びる.石濤[せきとう]は「一画論」を提唱し, 古法への盲従を排して「我自身の法」による自由な表現を主張した.この両者は「清初二大奇人」として後世の中国・日本の絵画に多大な影響を与えた.

揚州においては18世紀に金農[きんのう]・鄭燮[ていしょう]・黄慎[こうしん]らの「揚州八怪」が活躍し, 奇抜で個性的な表現によって花卉・人物・書の分野に斬新な様式を展開した.商業都市揚州の富裕な市民層を主要な支持基盤としたこの動向は, 芸術の社会的担い手が士大夫から市民へと移行しつつあることを示す点で美術社会史的に重要である.

宮廷絵画においては, 康熙・雍正・乾隆の三帝が絵画・工芸の庇護者として積極的に関与した.カスティリオーネ[郎世寧, ろうせいねい]をはじめとするイエズス会士画家が宮廷に仕え, 西洋の遠近法・陰影法と中国の線描・没骨技法を融合した独自の「中西合璧」様式を展開した.これは中国絵画史上初めて本格的な西洋絵画技法が宮廷美術に組み込まれた事例として重要である.

陶磁においては, 景徳鎮官窯が清代に再び頂点を迎えた.康熙期には「郎窯紅[ろうようこう]」と称される深紅の銅紅釉・青花磁器の技術的完成が達成された.雍正期には粉彩[ふんさい]と呼ばれる不透明顔料による精緻な上絵付け技法が完成し, 繊細で典雅な様式を示した.乾隆期には各種技法の集大成として豪華絢爛な装飾磁器が制作され, ヨーロッパ向け輸出磁器[シノワズリー]としても大量に流通した.

書においては, 清代に碑学[ひがく]運動が興隆した.帖学[じょうがく], すなわち王羲之以来の法帖の伝統に対し, 阮元[げんげん]・包世臣[ほうせいしん]・康有為[こうゆうい]らが北魏・漢代の石碑・摩崖に刻された書の力強さを再評価し, 篆書・隷書・北碑様式の復興を唱えた.この碑学運動は清代書道に多様な様式的展開をもたらし, 鄧石如[とうせきじょ]・何紹基[かしょうき]・趙之謙[ちょうしけん]らが個性的な碑学書風を示した.

工芸においては, 宮廷造弁処[ぞうべんしょ]が皇帝直属の工房として漆工・金属工・玉工・象牙工・織物の各分野で最高水準の工芸品を制作した.乾隆帝の旺盛な収集・制作への関与は工芸の精緻化を促す一方, 過剰な装飾性という批判も招いた.景泰藍・彫漆・玉彫の技術はこの時代に頂点をなした.

清代の美術は, 正統派の古典継承・遺民の精神的抵抗・市民的個性主義・宮廷の国際的折衷という四つの潮流が複層的に共存した時代として, 中国美術史上最も多様な展開を示した時代である.その造形的遺産は近代中国美術の出発点をなすとともに, 東アジア・ヨーロッパの美術にも広範な影響を与えた.

Vita brevis, ars longa. Omnia vincit Amor.





















西洋美術史 黒田清輝 ラファエロ・サンツィオ ピエール=オーギュスト・ルノワール フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ