
〔読み〕のぶなが。
福岡県、広島県、岡山県、山口県など西日本に分布しており、特に山口県防府市、岡山県久米南町、愛媛県宇和島市、広島県などにまとまりが見られる。
著名なのが、現在の福岡県行橋市に残る「延永」という地名と、京都府北部の丹後地方で中世に活動した延永氏である。前者は豊前国京都郡の延永村として近世の村名に確認でき、幕末には小倉藩領の村であった。現在も行橋市に「延永」の地名が残っている。
歴史上きわめて重要なのが、丹後国の延永氏である。これは単なる近世の一般姓ではなく、室町時代から戦国時代にかけて丹後国で大きな勢力を持った在地武家であり、丹後守護一色氏の守護代を務めた家である。京都府教育委員会は、宮津市の阿弥陀ヶ峰城を「守護代延永氏の城」と明確に位置付けており、今熊野城の一色氏と対になる丹後支配の中枢だったとしている。
この延永氏については、15世紀前半には延永益信・延永益幸・延永直信らの名が確認され、少なくとも室町期には丹後の有力武家として活動していたことが分かる。福井県立文書館が公開する研究資料にも、正長年間(1428~1429)前後の丹後守護代として、延永益信、延永益幸に言及されている。
さらに延永氏の所領基盤を具体的に示す重要史料が、『丹後国惣田数帳』である。1459(長禄3)年頃の記録には延永左京亮が登場し、丹後国内に広範な所領を有していたことが確認できる。特に現在の京都府舞鶴市東部にあたる倉橋郷に大きな所領を持っていたことが知られており、延永氏が単なる守護代という官職上の存在ではなく、加佐郡を中心に実質的な経済基盤を持つ在地領主であったことが分かる。
この延永氏の最も著名な人物が、延永春信である。春信は16世紀初頭の丹後守護代であり、永正年間(1504~1521)に一色氏内部の家督争いに深く介入した。一色義有の死後、丹後では一色義清を支持する重臣石川直経と、一色氏一族の一色九郎を擁立する延永春信が対立し、やがて内戦に発展した。福井県史も、1516(永正13)年前後から、石川直経と延永春信の両派が丹後で激しく衝突したことを記している。
春信は宮津・府中方面だけでなく、加佐郡を基盤として活動し、現在の舞鶴市にある倉橋城を本拠の一つとした。1517(永正14)年、若狭武田氏・朝倉氏などの軍勢との戦いに敗れ、倉橋城が落城したことが記録されている。この戦乱は延永氏の勢力を大きく後退させ、丹後における一色氏の内紛と若狭勢力の介入が結び付いた大規模な地域戦争となった。
さらに興味深いのが、「延永」と「信永(のぶなが)」の関係である。現在の「信永」姓は広島県など瀬戸内地方に比較的多く、名字資料では「信永」が延永氏から転化した可能性を指摘している。また「信長」姓についても、延永・信永からの転訛という説がある。
初版:2026年08月30日(月)。
デザイン名字. 
