千葉氏

940(天慶3)年に、平将門が藤原秀郷、平貞盛らによって討伐される。将門の遺領は叔父の平良文に与えられる。

1028(長元元)年には、平良文の子孫である平忠常が叛乱。4年後,源頼信の追討を受け降伏。

1051-1062年には、前九年の役。平忠常の子常将が源義家に従って参戦。
常将は千葉小次郎と呼ばれ,「総州千葉に居る,因て氏とす」と系譜にあり千葉城にあったと考えられる。

1083-1087年には、後三年の役。平常将の子の常長は子の常兼とともに源義家に従って参戦。

1126(大治元)年には、常兼の子の常重が千葉城を本拠地とするとの伝承あり。

1156(保元元)年には、保元の乱が勃発する。平常胤,上総広常,安西,沼,丸ら房総平氏諸族は源義朝に従軍。

1160(平治元)年には、平治の乱が勃発する。平常胤は常陸佐竹氏との所領争いの為に参軍せず。同族の上総広常は源義朝に従って敗戦。

1180(治承4)年には、伊豆にて源頼朝が挙兵。千葉常胤,上総広常が源頼朝の下に参軍。千葉常胤は源頼朝に父祖伝来の地である鎌倉を本拠とすることを薦める。

1184(寿永2)年には、上総広常が鎌倉にて,源頼朝の命を受けた梶原景時によって誅殺される。広常の嫡男・上総能常も自害。所領は千葉氏と三浦氏に分配される。
以降,千葉常胤の子達が千葉六党を形成し繁茂する。

1221(承久3)年には、承久の乱が勃発する。千葉胤綱は鎌倉幕府軍として京都に侵攻。

1247(宝治元)年には、宝治合戦勃発。鎌倉幕府評定衆の上総権介秀胤が三浦泰村の妹婿であった関係で幕府軍の追討を受けて自刃。

1274(文永11)年には、文永の役。元軍が来襲。千葉頼胤も異国警固番役として下向。負傷し翌年に死去。子の千葉宗胤が承継。宗胤も肥前国小城郡晴気城にすぐに下向。
宗胤は大隅守護職として下総に戻ることなく没する。
子の胤貞が幼少であったため,下総では宗胤の弟の胤宗が勢力を固め,子の貞胤が千葉介を承継する。つまり,千葉氏が肥前の宗家と下総の千葉介家とに分裂する。

1331(元弘元)年には、千葉貞胤が北条貞直軍に属して楠木正成の河内下赤坂城を攻める。

1333(元弘3)年には、千葉貞胤が幕府に叛旗を翻した新田義貞に従う。鶴見川にて鎌倉下道を攻め上がる北条貞将を破る。

1335(建武2)年には、中先代の乱が勃発。足利尊氏が京都から鎌倉に下向。足利尊氏は後醍醐天皇の命令を無視して鎌倉に居座って対立。
千葉宗家の千葉胤貞も従軍。ここに,足利方の千葉宗家の千葉胤貞と後醍醐天皇方の千葉貞胤が対立する構図となる。

1336(建武3)年には、足利尊氏が京都を制圧し,後醍醐天皇と和議。この結果,千葉胤貞と千葉貞胤の対立も解消。以降,千葉胤貞は肥前国小城郡晴気庄を本拠とし,千葉貞胤は下総にあって勢力を伸ばす。

1381(永徳元)年には、小山氏の乱が勃発。千葉満胤は鎌倉公方足利氏満に従って出陣。

1416(応永23)年には、犬懸上杉禅秀の乱が勃発。千葉満胤の嫡男・兼胤が犬懸上杉禅秀の婿であったために,小山泰朝,佐竹義憲と共に鎌倉公方に叛旗。しかし,京都の室町幕府が鎌倉公方足利持氏救援を決定。駿河守護今川範政が派遣され,禅秀が自害すると,千葉満胤・兼胤父子は今川軍の軍門に下る。戦後処理で千葉満胤は強制隠居させられるが所領は兼胤に安堵される。

1430(永享2)年には、鎌倉公方足利持氏が室町幕府からの自立を画策するのを関東管領上杉憲実とともに千葉胤直が諫める。

1438(永享10)年には、鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉憲実と対立。上杉憲実が粛清の危機に晒され,室町幕府に救援を求め,第8代将軍足利義教が足利持氏討伐軍を派遣。ここに永享の乱が勃発。
千葉胤直は持氏軍に加わるも,鎌倉公方奉公衆筆頭の簗田満助と戦闘継続を巡って対立。足利持氏が戦闘継続を唱える簗田満助の意見を入れたために軍を下総市河に引く。次いで,関東管領上杉憲実に降る。

1439(永享11)年には、千葉胤直が,上杉持朝とともに鎌倉に侵攻し永安寺にあった鎌倉公方足利持氏を討ち取る。

1447(文安4)年には、越後守護上杉房朝らの働きかけによって,足利持氏の子の足利成氏が鎌倉公方に迎えられる。千葉胤直・胤将父子は鎌倉府に出仕。

1455(享徳3)年には、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を鎌倉西御門にて暗殺。鎌倉公方と室町幕府,山内・扇谷両上杉との約30年に及ぶ戦争である享徳の乱が勃発する。
千葉胤直・胤賢父子は両上杉方として鎌倉公方足利成氏を攻撃。

1455(康正元)年には、千葉氏一族である馬加康胤,原胤房が足利持氏に与して千葉胤直父子を攻撃。千葉胤直・胤宣父子は自刃し,馬加康胤が千葉宗家を簒奪。千葉胤賢も攻められ自刃。

1456(康正2)年には、千葉宗家が一族の馬加康胤によって簒奪された後,千葉胤賢の子の実胤・自胤兄弟は市河城に拠っていた。これに対して,室町幕府第8代将軍足利義政が千葉一族であった東常縁を派遣。しかし,鎌倉公方足利成氏が派遣した簗田持助によって市河城が陥落。千葉実胤・自胤兄弟は武蔵国へと落ち延びる。
その後,東庄近くの下総匝瑳郡に逃れた東常縁が馬加城を落城させ,逃亡した千葉(馬加)康胤・胤持父子を討ち取る。更に,原胤房も追放。
ところが,馬加康胤の庶子で印旛郡印東庄岩橋村を所領としていた岩橋輔胤が千葉城に入って千葉宗家を承継。この千葉(岩橋)輔胤も幕府方の東常縁によって千葉城が落城させられると佐倉に逃れる。

1469-1486(文明年間)には、千葉(岩橋)輔胤が本佐倉城を築城し古河公方足利成氏方として両上杉家に対抗。

大日寺


2006年9月訪問

来迎寺のすぐ近くにある真言宗豊山派の古刹。1254(建長6)年に千葉頼胤が松戸の馬橋に源氏3代供養のために建立。1284(弘安7)年に頼胤の子の胤宗が千葉氏の菩提寺として千葉の地に移したと伝えられる。

1945(昭和20)年に戦災で焼けるまで千葉神社の近くにあった。写真の16基の五輪塔を見たいがために足を運んだ。この見事な五輪塔は千葉常兼から胤将までの歴代千葉氏16代の墓碑とされる。鎌倉時代から室町時代に掛けてのもの。加えて、その奥にある多層塔は1445(文安2)年のもの。

千葉城


2009年11月訪問

1126(大治元)年に千葉介常重が上総大椎城から本拠地を移して築城した亥鼻城の跡地に立つ模造天守閣の郷土館。

JR外房線本千葉駅あるいは千葉モノレールの県庁前駅から歩いて行ける。

千葉氏は鎌倉時代、室町時代を通じて亥鼻城を本拠とし続けた。

しかし、1455(康正元)年に嫡流の千葉胤直が叔父・馬加康胤との間で争乱を生み、城を落ち延びて以降は荒廃するに任された。