桓武平氏

825(天長2)年に桓武天皇の子の葛原親王の長男である高棟王が平姓を下賜されたことが桓武平氏の始まり。平氏には他に仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏などがあったがいづれも歴史上は精彩を欠いたと言わざるを得ない。

桓武平氏の発展の基礎を築いたのは高棟王の弟である高見王の子の平高望。この平高望は実は葛原親王の子であるという説もある。それはともかく、高望王は889(寛平元)年5月13日に宇多天皇によって平姓を下賜された。

平高望は898(昌泰元)年に上総介に任じられる。そして、通例では任地には赴かないのであるが、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って上総国に下向。任期が終わった後も上総国に留まった。そして、国香には前常陸大掾の源護の娘を、良将には下総国相馬郡の犬養春枝の娘を娶らせて勢力を張った。これが高望王流桓武平氏である。但し、高望自身は晩年は大宰府に移り、そこで没している。

平高望の子孫は千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、秩父氏、大庭氏、梶原氏、長尾氏らの坂東八平氏として平安末期から鎌倉時代初期に掛けて鎌倉幕府を樹立する原動力となっていった。

平国香の嫡男の貞盛の四男平維衡は伊勢において平良兼の孫致頼との抗争を繰り返し平清盛に繋がる伊勢平氏の基礎を築いた。鎌倉幕府において執権を代々務めた北条家もまた平維衡の流れを汲み伊豆を本拠地とした一族である。


千葉
千葉氏は鎌倉幕府創設を支えた坂東八平氏の有力氏族。千葉六党などの支族を生み出し房総の他、九州でも繁茂した。

葦名
葦名氏は坂東八平氏の一つ三浦氏の支族。三浦半島から会津に進出し会津を支配するも伊達氏によって滅ぼされた。

平清盛西八条殿跡

平清盛が1166(仁安元)年の熊野詣に際して、西八条殿内の御神体を祀ったのを始まりとする若一神社の鎮座する地。この地こそが、平氏一族の邸宅が立ち並ぶ地だった。そもそも、祀られている若一王子は光仁天皇の時代に唐から来日した威光上人が熊野から分霊して京都西八条の地に祀ったもの。772(宝亀3)年のことという。

その後、天変地異によって地中に埋もれ忘れ去られた。それを清盛が御神託によって掘り起こす。ために、翌年に太政大臣に任ぜられたと伝わる。


2008年5月訪問

六波羅


2003年3月訪問

京都の補陀洛山六波羅蜜寺は鎌倉時代の作で重要文化財の空也上人像、同じく重要文化財で、これも同じく鎌倉時代の作とされる平清盛坐像で有名。

これは前回の参詣の時に間近で拝見した。

六波羅蜜寺というとこうした彫像群を思い浮かべる向きが多いかと思う。この点、私の場合は、六波羅イクォール平清盛ら平家の京都における拠点、鎌倉時代では幕府の出先である六波羅探題の地、探題南方の北条時輔が二月騒動で討たれた地、それから鎌倉幕府軍と倒幕軍とが攻防を繰り広げた地といったことが浮かぶ。

京都は数々の歴史の舞台となったところであり、そこかしこに歴史の息吹を感じることが出来る。それでも、六波羅と聞くといろいろなことを思い浮かべる。

その六波羅の地に、天暦5(951)年に醍醐天皇の第2皇子光勝空也上人が建てたのが六波羅密寺。ということは、平家の興亡に先立つわけで、この寺はそうした歴史をずっと見つづけてきたということになる。益々、歴史の流れを感ぜざるを得ない。

空也上人亡き後は中信上人によって支えられ天台別院として大いに栄えたと言う。

そして、将に、この六波羅密寺の地に平忠盛が拠点を構え、清盛・重盛の代にわたって多くの邸宅を境内に構えたとのこと。この寺は平家政権の中枢に位置していたということになる。目を瞑ってみると、CGの如くに荘厳な邸宅群に囲まれた街区が蘇る。

平家の滅亡は、そうした街区を灰燼と化すものだった。当時を物語る平家由来の建物が、六波羅の地にないことが、そのことを示している。六波羅密寺は源頼朝によって復興されたものの、それからも災難は続き、北条時輔追放の二月騒動の際にも、倒幕軍対北条軍の戦いの際にも、六波羅は戦場となった。

六波羅の地にようやく平安が訪れたのは、足利氏が統治するようになってから義詮によって復興が図られてからと言えるのだろうか。時代は下って、豊臣秀吉による今は無き大仏建立の際に修復がなされてから以降は兵火に焼かれるという歴史を経ずに現代に至っている。

現在、目にすることの出来る本堂は非常に歴史が古く貞治2(1363)年のもの。新しく感じられるのは、昭和44(1969)年に解体修復がなされたということと、歴史に魅了されて訪れる数多くの人々と人々の信仰がそうさせているのかもと感じる。

清盛塚

神戸市の兵庫区にある高さ約8.5メートルの1289(弘安9)年2月の年号が刻まれた十三重の石塔。1680(延宝8)年の『福原びんかがみ』によると北条貞時が建立したという。また、1692(元禄5)年の『兵庫寺社改帳』にも清盛石塔の委細が記されている。

もっとも、大正12年に旧神戸市電の道路拡張工事に伴う移転の際の調査の結果、遺骨は発見されなかった。但し、鎌倉時代建造の、この石塔が清盛所縁であると、長い間言い伝えられてきており、供養塔と考えられている。源平の昔を確かに偲べる跡がここにある。


2007年12月訪問