伊達氏

藤原朝宗の母は源頼朝の伯母。1189(文治5)年の源頼朝による奥州征伐に参軍。その頃、朝宗は出家して念西と名乗っていたが、信夫郡石那坂の戦いにおいて平泉方の大鳥城主藤原(佐藤)基治を撃破。その功によって、伊達郡を拝領。高館に城を構えて定住した。
朝宗とともに伊達郡に来た次男の宗村が伊達を称したのが伊達氏の始まり。

朝宗の娘である大進局は源頼朝との間に貞曉僧都をもうけている。

伊達家の始祖 藤原朝宗の墓

福島県桑折にある藤原朝宗の墓所。1821(文政4)年に伊達家によって墓前に五輪の石塔が造立された。


2010年10月25日訪問

梁川城

福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡にある城。伊達氏の祖である藤原朝宗によって築城したとも言われる。しかし、発掘からは第3代伊達義広(1185-1256)、第4代伊達政依の頃には築城されていたと考えられている。梁川城は鶴ヶ岡城とも呼ばれ、1532(天文元)年に伊達稙宗が桑折西山城に移るまで伊達氏の居城だった。

西山城

1532(天文元)年に伊達稙宗が梁川城から移した伊達氏の居城。藤原朝宗が居館としたのも西山城だと言われている。しかし、西山城が本格的に整備されたのは伊達稙宗以降。稙宗は陸奥国守護に任じられるとともに西山城に移っている。

伊達稙宗は婚姻政策によって、最上・相馬・蘆名・大崎・葛西ら南奥羽の大名を自らの陣営に加えていった。しかし、婿の相馬顕胤に伊達領の一部を与えようとしたことから家臣団に亀裂が生じる。

こうした中、伊達稙宗は三男・伊達実元を越後守護・上杉定実の養子として入嗣させる事を決める。これに反対した越後の揚北衆の本庄房長らが1540(天文9)年に上杉家に叛旗を翻した。稙宗は越後国内の反対派に対処するために伊達実元の随行衆として家臣100名を選抜。これを伊達家の戦力弱体化を招くと考えた稙宗の嫡男である晴宗が中野宗時・牧野宗興・桑折景長ら家臣とともに1542(天文11)年に父・稙宗を西山城に幽閉。ここに、洞の乱こと天文の乱が勃発した。

稙宗は側近・小梁川宗朝によって救出。稙宗は諸大名を糾合し反撃に出て優勢となる。しかし、味方の田村隆顕と蘆名盛氏が対立。蘆名盛氏が晴宗方に寝返ったことにより情勢は逆転。遂には、1548(天文17)年9月、将軍・足利義輝の仲裁によって乱は終息した。これにより伊達実元の越後入国も無くなった。

乱の後、晴宗は伊達氏家督を継いで居城を米沢に移し、稙宗は丸森城に隠居した。そして、越後に入るはずであった伊達実元は晴宗の二女を娶り大森城主となり晴宗に代わって信達地方を統治した。

大森城城


物見櫓


空堀