2002/12/27 (金) 

ラビットの本籍 本(もと)に戻りたり
 「ピータラビット」を巡って、絵本の版権を持つイギリスのフレデリック・ウォーン社が子供服のファミリア社を不正競争防止法に基づいて訴えていた訴訟の判決が東京地裁で下される。ウォーン社の主張が認められ、ファミリア社に対して損害賠償と製造差し止めが命じられた。「ピータラビット」の子供服は絵本の「ピータラビット」とは違っていたということを初めて知った。版権を持つ会社の名前までは知らなかったけれども、裁判所は版権を持っている会社が同様のキャラクター事業を行っていることは広く知られているとしている。確かに、ファミリア社の「ピータラビット」かウォーン社の「ピータラビット」か、ウォーン社の「ピータラビット」がブランドとして確立していると、買う側はファミリア社の「ピータラビット」をウォーン社の「ピータラビット」と誤解してしまう。

2002/12/26 (木) 

立て篭(こ)もり トラブル理由に 口籠(ごも)り
K−1も 法の前には 力負け

2002/12/25 (水)  A very Merry Christmas!

掲示板 管理者側の 責任を 認める判決 東京高裁
経営の判断 司法で裁かれて 融資に背任問われるも 融資は会社のためとして 頭取専務は無罪放免
 「旧福徳銀行(大阪市)融資事件」で銀行に損害を与えたとして商法の特別背任罪に問われていた元頭取と元専務。1審・大阪地裁判決では銀行に損害を与えていないとされたが、控訴審でも同様の判決となった。
 取締役は善管注意義務・忠実義務を負うが、その認定は難しい。こうしたケースで取締役が責任がなかったということを主張する手段としては米国の判例法に起源を有する「経営判断の原則」というのがある。
 この「経営判断の原則」を始めて適用したものとして有名なのが「野村証券損失補填事件・第1審」。これは、東京放送に対する損失補填行為に対する株主代表訴訟だが、この判決の中で、「取締役の経営判断の当否が問題となった場合、取締役であればその時点でどのような経営判断をすべきであったかをまず考えた上、これとの対比によって実際に行われた取締役の判断の当否を決定することは相当ではなく、むしろ前提となった事実認識に不注意な誤りがあり、又は意思決定の過程が著しく不合理であったと認められる場合には、取締役の経営判断は許容される裁量の範囲を逸脱したものとなり、取締役の善管注意義務又は忠実義務に違反するものとなる」とした。
 刑務所の 沙汰も お金次第なり
 「千葉刑務所収賄事件」で加重収賄罪に問われていた元看守が千葉地裁の初公判で起訴事実を認めた。拘置者に物品を渡す見返りに金銭を収受したというが、その見返りはわずか。しかし、被告は懲戒免職になっており、その代償は大きすぎるものだったといえる。

 今日、ミレナリオ(Tokyo Millenario)の前を通過する。昨年も前を通過したけれども、電光の輝きもさることながら人の多さにも驚かされる。家族連れを見かけたが、会社は休みなのだろうか?もう休みだとすると、何連休になるのだろう。羨ましい限り。

2002/12/24 (火)

司法の レッドカードを無視をして 急ぐ町長、解体工事 住民怒りて告発す 
「滋賀県豊郷町立豊郷小学校解体工事事件」で、大津地裁の仮処分決定を無視して解体工事を行った大野和三郎町長を建造物損壊罪で滋賀県警に告発した。どうして、町長がそこまで急ぐのか。建物は危険というのが主たる理由ということだけれども、保存派住民以外にも校舎の中に人が引越し準備のためにいたという。これが本当だとすると、中に人がいる状況下で窓ガラスを割るということのほうが危険。映像の威力だと思うが、作業員が保存派住民の制止を振り切って窓ガラスを壊そうとするシーンは強く印象に刻まれた。
[後記]同町長は取り壊しの撤回を文部科学省に報告し、一転して歴史的校舎は保存されることになった。これで、保存派住民と町長とのしこりはとれるだろうか。そうした中で、滋賀県警の現場検証が行われたという。
一票の重み ここに現れる たかが一票されど一票 現職破る 南知多町
 あっ、候補者の名前も「とし一」さんと「とし久」さんで1字違い。森下「とし久」さん、当選おめでとうございます。
 南知多町のキャラクターは太陽のような「ミーナ」ちゃん。同町は知多半島の先端に位置し、人口23,287人(平成13年8月1日現在)、面積38平方キロメートル。内海、豊浜、師崎、篠島、日間賀島地区からなる。篠島、日間賀島は、その名の通り島。内海町・豊浜町・師崎町・篠島村及び日間賀島村が合併して誕生。
 篠島は、延元3(1338)年に後に後村上天皇として即位する後醍醐天皇の皇子、義良親王が立ち寄った際に使用したとされる帝井があることで知られている。
 電子化の 手形は 結局不渡りに
 全国銀行協会が計画していた2006年の手形交換所廃止を見送った。
 見送ったということは、諦めてはいないということになる。電子化は時代の流れではあるけれども、初期の投資費用が嵩むのが難点。手形交換所の運営は、各地の銀行協会で行われており、現在、手形交換所は全国に400ヵ所。この手形交換所における手形・小切手現物の交換を省略するいわゆるチェック・トランケーションを導入することを今年の3月19日に発表していた。この計画により、全国の手形交換所とは別個に「電子手形交換所」を新設することになっていた。
 そもそも、手形交換所は、明治12年12月1日、現在の大阪市中央区北浜4丁目の住友銀行東の辺りに設置されたのが始まり(東京に手形交換所が設置されたのは8年後)。今回の全銀協の計画が実施されれば、この時以来の大変革となるはずだった。

▼手形交換制度:日本における手形交換制度は明治12(1879)年の大阪に始まる。手形交換所が世界で始めて設置されたのは英国ロンドンで1773年。ロンドンでの設置から大阪における設置まで1世紀の時間が流れているわけではあるが、ニューヨークで1853年、パリで1872年開設ということを考慮すると日本の手形交換所設置が遅いとは言えない。
 大阪に手形交換所が設置される少し前まで、日本における商取引は現金決済と節季決済という帳簿信用取引が主流だった。つまり商業手形の割引というような商慣習はなかった。現在の手形流通制度は明治政府が西洋風の銀行制度を敷くために整えたもの。
▼銀目手形:節季決済支払いのために振り出された小切手のこと。あくまでも小切手であり両替商が資金流通の中心を担った。
 銀目手形は、現在の預金小切手に相当する預り手形という両替商が発行する銀貨保管証と振り手形という現在の小切手に相当する両替商宛の支払指図手形からなった。
 大坂における商取引は「百中ノ九十九迄ハ手形ニシテ正金取引ハ僅少ナリ」と言われ銀目手形による決済が主流だったという。
銀目手形は明治維新政府の近代化政策によって廃止され、資金決済のための手形制度に代替された。
▼ 両替商:銀を「両(金)に替える」というのが語源。 文献上は、寛文2(1662)年の大坂町奉行石丸定次による『両替屋仲間取り決め締結命令』に見える「両替屋」が初出。
 両替商には、本両替と呼ばれる金銀などの高額通貨を扱う両替商と銭両替という少額通貨を扱うものの2種類があった。
 両替商の起源とされるのは、大阪天王寺屋五兵衛による金銭売買を発展させた手形取扱とされる(寛文2[1628]年)。三井両替店、鴻池善右衛門が有名。

2002/12/23 (月)

 神奈川で 重機は盗機に 変わりたり 
 今度は「横浜松坂屋ストア片倉町店」の横浜銀行のATMが被害にあった。最近、ATMの破壊が相次いでいると思っていたら、昨年12月以来27件発生していて、今回を含めると28件とのこと。
 「金、金、金」と金をとり バールで殴って金をとり 瑞穂町で金をとり  東京の瑞穂町のパチンコ店ニラク瑞穂店で強盗致傷事件。調べたわけではないので、不確かではあるけれども、80年代の強盗はこれほど荒かっただろうか。もちろん、強盗致傷事件ということだから、少し前も今も同じ程度であるのだろう。それは、承知の上で、犯罪への障壁が低くなってきているような気がしてならない。

2002/12/22 (日)

 もめ事は 時代とともに 専門化 専門家なしでは 法も裁けず
 法務省が来年1月の通常国会に、医療過誤などの裁判に専門委員を法廷に立ち会わせる「専門委員」の制度の導入を2004年に目指す民事訴訟法改正案を出すという。
 封印を 除去し 自ら封印す
 北朝鮮政府が態度を硬化させている。日朝交渉の結果が影響を与えているのか、あるいは米英に対するイラク政府の態度から影響を受けているのだろうか。いづれにしても、北朝鮮政府にはもはや切ることの出来るカードは無くなっている。 

[更新]鎌倉「円覚寺」の項目を一部更新。
遺棄罪:要扶助者を保護されない状態において、生命・身体を危険な状態にさらすことによる犯罪のこと。

[徳蔵寺城址]
 現在は城址に臨済宗大徳寺派徳蔵寺が建つ。わずかに、寺の周囲を囲むように2本流れる川にかつてを偲ぶことが出来る。
 この地域は足利宮内少輔泰氏の次男板倉二郎義顕(板倉家、後の渋川家)から始まる板倉氏の支配地であり、「新編武蔵風土記稿」に土塁や塀の跡があったことが記されている。
 川を挟んで北側の八国山将軍塚に新田義貞軍が布陣し鎌倉幕府軍と対峙した。
 この川のすぐ近くで久米川の戦いが繰り広げられたとされる。[参照]九道の辻
 
東村山市諏訪町1-26-3

[板倉家]足利義顕(義顕)から始まる渋川家は、貞頼、義季(正和3[1314]年-建武2[1335]年)、直頼と継承され義行のときに九州探題に就任。その後、満頼(応安5[1372]年-文安3[1446]年)、義俊(応永7[1400]年-永享6[1434]年)と九州探題職を歴任した。義俊の後、義鏡、義堯、頼重と続く。この頼重のときに、三河国額田郡小美村に移住。三河国の深溝松平家の忠定の家臣となった。板倉八衛門頼重の孫が徳川幕府政権下で京都所司代を務める板倉勝重である。
その嫡流は、備中松山藩主(備中松山[高梁]城)として明治維新を迎えたほか、安中藩・庭瀬藩・福島藩も板倉氏支流。

[更新]傷害の罪について

2002/12/21 (土)

 脱税の疑惑は かなり高く付き 会場確保は困難に 高知市は ケイワン開催不許可とす
 盲点を突いたつもりが 現行犯 川崎市場 蜜柑は決して甘くなく 

 朝からの 雨が雪になる ゆっくりと しかし 突然に 灰色の景色は 白いキャンバスに変わる

[参考]集会結社の自由

[古義真言宗大覚寺]
 嵯峨野から程近いところにある古寺。元享元(876)年に後宇多天皇が再興し、その後に後宇多天皇の系統を大覚寺統と称したために、通称、嵯峨御所とも呼ばれる。
 あたりには素朴な京都がある。
 ここから四条に行くには、一旦、嵐山まで戻って嵐山線に乗るか、門前のバス停を利用するのが良い。でも、お勧めは嵐山経由。
[参考]文保の和談