[[義家流(新田流)]]
**新田家(1)
***年表
|50|50|50|300|c
|西暦|元号|月日|事蹟|
|1155|久寿2|6/26|源義国が新田郡内にて亡くなる。新田郡岩松郷の青蓮寺に葬られる。|
|~|~|8/16|鎌倉悪源太義平が叔父・源義賢を武蔵大蔵館に攻め討ち取る。&br;これにより、源姓足利氏を包囲していた藤姓足利氏、武蔵秩父党、源義賢の一画が崩れる。&br;これに先立って源義国は長男・新田義重の娘を鎌倉にいた源義平に嫁がせている。|
|1156|保元1||【保元の乱】が勃発。&br;後白河天皇(藤原忠通、信西、平清盛、源義朝)VS崇徳上皇(藤原頼長、平忠正、源為義)&br;新田義重の弟・足利義康が源義朝に従って参戦。勝利後、足利義康は上野介・従五位下に叙任される。|
|1157|保元2|3/8|正三位左衛門督藤原忠雅(北家)を領家とする上野新田荘が成立。新田義重は下司となる。藤原忠雅の息子・兼雅は平清盛の義理の息子。また、藤原北家を主君とするのは清和源氏の伝統でもあり、名も実も立てた形。|
||||【秩父足利合戦】&br;新田義重が藤姓足利氏・秩父氏らと本格的に武力衝突。渡良瀬川の強行渡河作戦によってこれを打ち破った。|
|1159|平治1|12/9|【平治の乱】&br;信西・平家一門VS二条親政派・後白河院政派。&br;源義朝・義平父子は敗死。源頼朝は伊豆へ配流。|
|1161|永暦2|5/1|梁田御厨訴訟で源姓足利氏が藤姓足利氏に勝利。|
|1170|嘉応2||新田義重は平宗盛の家人として隆盛を極める。&br;新田荘は現在の太田、尾島、新田、藪塚、東、笠懸から桐生、新里、赤堀、境の一部と伊勢崎、玉村、深谷、妻沼の一部に及んでいた。さらに、上野八幡荘(榛名、里見、豊岡、寺尾)、山名郷も領した。新田義重はこれらの所領を息子達に与え里見、山名、世良田(得川)、額田などの庶流が成立した。|
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