岐阜県

郡上八幡城

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別名を積翠城とも。土佐藩祖山内一豊の妻、千代の故郷でもある。1559(永禄2)年に、鎌倉幕府以来の名門東家の血を引く初代城主遠藤盛数が築城。

東家は千葉氏の支流で、美濃に土着。1559(永禄2)年に東常尭(つねたか)が一門の遠藤胤縁(たねより)を縁談の縺れから殺害。胤縁の弟の盛数が東殿山に東常尭を討ち、12代340年の名門東家は滅亡。遠藤家が実権を握る。盛数は木越城を胤縁の子の胤基に与え、自らは八幡城を築城。

盛数の没後、三郎四郎慶隆が13歳で2代目を承継。1588(天正16)年、岐阜城主織田信孝に通じた慶隆は豊臣秀吉によって加茂郡小原犬地に移封、八幡城には稲葉一鉄の子の貞通が入る。1600(慶長5)年、遠藤慶隆は徳川家康の許可のもと、旧領回復のために金森可重とともに八幡城の稲葉通孝を攻める。貞通・通孝と遠藤・金森軍との戦いは激しいものとなったが結局は和睦。関が原の戦いでは双方が徳川方に組したために、慶隆は2.7万石で旧領回復、稲葉貞通は1万石加増されて豊後臼杵へという決着が図られる。

1667(寛文7)年3代目城主遠藤常友が八幡城を大修築し、近隣の寺院を「8家9宗」として城下に集約。城主格から城主となる。1692(元禄5)年5代目城主常久が7歳で死去したために遠藤家は一旦断絶。大垣藩の戸田氏成の子の数馬胤親に遠藤家を継がせ常陸、下野1万石として再興。八幡城には常陸笠間から井上正任が5万石で入封。次の正岑のときに丹波亀山に移封。後には出羽上ノ山から金森頼(よりとき)が3.8万石で入る。

その嫡孫の頼錦の時に幕府の奏者番としての出費から、農民が老中酒井忠寄に駕籠訴を行う宝暦騒動が勃発。また、越前石徹白村(いしどしろ、岐阜県白鳥町)で神社と真宗門徒との間で騒乱が発生。幕府は責任を問って1758(宝暦8)年に金森家を取り潰しとした。

代わって、八幡には丹後宮津から青山幸道が4.8万石で入る。以後、青山氏が7代111年に及んで郡上八幡を統治した。

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2006.04.28訪問。



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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:27:58 (3786d)