山口県

松陰神社

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多くの勤皇の志士を育てた吉田松陰を祭神とする神社。

明治23年の関係者による松下村塾の改修と時を同じくして行われた杉家邸内における内社鎮祀を起源とする。

明治40年9月には伊藤博文侯爵、野村靖子爵を松陰神社維持会の総裁、副総裁として、縣知事渡辺融に縣社格を願い出て、同年10月4日に正式に許可を受けた。

この松陰神社の境内には、国指定史跡の松下村塾や松陰が幽囚された旧宅を始め、吉田松陰の足跡を偲ぶ吉田松陰遺墨展示館などがある。

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吉田松陰は天保元(1830)年に萩松本村の二十六石の藩士杉百合之助の次男として生まれた。その人生の多くを杉家で過ごすが、幼いころに親戚筋に当たる山鹿流兵学師範を勤める吉田家(五十七石六斗)を継ぎ藩主の御前講義を行う。

実際に、兵学師範として明倫館の教壇に立ったのは十九歳の折である。

その後、二十一歳で藩主に薦められて、江戸藩邸に出仕するも、学問探求の志捨てがたく、水戸、東北などを遊学。この際、藩上役との連絡の行き違いから脱藩することとなり送還命令を受けている。

但し、藩主の擁護により再び諸国漫遊の途に就く。

嘉永6(1853)年、米国軍艦が浦賀に来航するを耳にし、海外遊学の夢を抑えきれず、翌3月に下田において乗艦を懇願するも、時期まさに日米国交交渉の最中であり失敗。

自首し伝馬町に幽閉、次いで萩藩幽閉を命じられる。

その後、一時、父預かりとなるも、国政を憂いて策を練ったことが露見し、再び幽閉のうえ江戸へ送られ、安政6(1859)年に伝馬町の露と消えた。



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Last-modified: 2010-02-20 (土) 00:27:18 (5180d)